5. 妙法ヶ岳 1998年(平成10)年5月20日
寺田政晴君と三峰神社にお参りかたがた、その辺りを歩いてみようかということになって、待合せは西武秩父線の西武秩父駅前。改札を出ると、寺田君が買ったばかりの車で来ていた。 開口一番、「横山さんは、寺田の車なんか、恐ろしい。足が腐っても乗らないぞといっていましたが、どうします」。「でも、こうなったら一蓮托生、神様を念じて乗ることにするよ」。 三峰観光道路終点の駐車場に車を置いて、まずは三峰神社に参拝。次に妙法ヶ岳に登って、三峰神社の奥の院に詣でた。丁度、ツツジの季節で、それを前景にした和名倉山の眺めがよかった。一頃、伐採と山火事で見る影もなかった和名倉山も数十年もたつと緑が濃くなって、「よかったねぇ」と声をかけたくなった。このあと、これが車のよいところで荒川奥の栃本まではひとっぱしり。 私が最初に栃本を訪れたのは1952年の夏、まだ大村屋旅館が営業している時代だった。1泊2食付300円。雁坂峠へ登ったのちは西へ甲武信岳、国師岳、金峰山、それに瑞檣山と奥秩父主脈縦走路をたどった。そんな懐かしい、しかも交通不便な栃本を労せずして訪れることができたのも寺田君の車のおかげで、これ以降もずいぶん彼の車にお世話になった。早朝、ロッジ山旅に乗りつけ、長沢氏を拉致して八ヶ岳の西岳に登ったなどということもあった。なお、ここに掲載の写真には寺田君の姿が見えないが、今後は数多く登場することになるだろう。それに当HPの私の写真欄のモノクロ篇カラー篇にはすでに何回か出てくるので(七ヶ岳、四郎岳、錫ヶ岳、銀太郎山、甲東不老山、雲取山、編笠山〜権現岳、大烏山、中央アルプス、川苔山、徳和川の上流.1、2、杏が岳、白布山、上州三峰山、三本槍岳、板沢山、浅松山、尼ヶ禿山、南平山、土岳、陣馬形山、滑沢山、倉掛山、高平山、曲岳、小日向山)、「もう、見たよ」とおっしゃる方もあると思う。 補記 寺田政晴君は2006年11月12日、数え58才という若さで亡くなった。彼と知り合ったのは1977年の初めごろで、山はその年の4月に南会津の七ヶ岳(ななつがたけ)に行ったのが最初になった。以後、彼とは200回を超すほども同行した。彼は「横山さんの山の面倒は、私がみますから」といってくれていたのに、早死にしてしまうなんて、云うこととやることが違うではないか。お墓は八王子市大横町の浄土宗極楽寺にあるが、生前、山ばかり行っていて修行なんかしたこともなかった彼が、なぜ、W極楽Wへ直行できたのか不思議で仕方ない。寺田君は『山と溪谷』『岳人』『山の本』などの山岳雑誌の常連筆者だったし、登山地図帳、各種ガイドブックにも多く書いていた。単行本には『夜景を楽しむ山歩き』(東京新聞出版局/2005)があるが、山を夜歩くガイドブックとはほかにはなく、彼の口癖だった「私は違います」の産物といってもよいだろう。没後翌年に追悼集『寺田政晴さんの想い出』(2007/僅かながら残部がある。希望者は横山宛に)が編まれた。しかし、そんな追悼集よりも、彼が生きていたらと思うばかりである。 (2018.7) |
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