6. 霧ヶ峰 南の耳、北の耳   2004年(平成16)年5月24日

ロッジ山旅に泊まり、初日は川俣渓谷の遊歩道、二日目は霧ヶ峰は八島湿原の外周を歩いた。同行は中村爽、岩村久雄の2君、長沢氏が先導を勤めてくれたことは云うまでもない。よく晴れ、爽やかな一日だった。
 
補記 

中村とは家が近くで小学校時代からの友だち。中学高校も一緒だった。彼は東京外語大学でフランス語を学んだ後、商事会社に入社して、一時、そのサイゴン支社に勤務していた。ベトナム戦争前の、まだ、仏領印度シナの面影が色濃く残る頃である。そこでフランスとベトナムの混血の絶世の美人と相愛の仲になり、日本に連れて帰るかもしれないといってきた。それを聞いてあわてたのが、彼の父親の中村吉雄さん。私のところへも、どうしたものかと相談に来たが、「その時のことですよ」ぐらいしか答えようがないではありませんか。それに、正直、私も、その娘さんを一目拝ませてもらいたかった。

この中村家はみな語学の才能があり、父親の吉雄さんは英独仏は云うに及ばず、梵語までできたという。ちなみにビクトリア時代の英国好色文学の大長編『わが秘密の生涯』(著者不明。全11巻/学芸書林/1975〜)の邦訳者は詩人の田村隆一ということになっているが、実際は、この中村吉雄さんがやったのである。田村隆一はつねづね「これを訳し終るまで、おじさん、死んではいけないよ」と云っていたそうだ。また、尾崎喜八の本を読んでいたら、ドイツ語は中村吉雄に習ったという一行があった。

岩村とは高校に入ってからの友だち。彼は語学はからきしダメだといっていたが、長じては、これも商社務めになって外国語をあやつるアメリカ、ポルトガルに長期赴任していたのだから、世の中、わからないものである。この写真のうち、一人、中国の大人風に写っているのが岩村である。なお、付け加えれば、みな寄る年波。中村は二言目には「ぼけてきたよ」だし、岩村のほうは先だって街で転び、救急車の中で正気に戻ったと云う。危ない、危ない。 (2018.7)
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