雲取山・4
   1984(昭和59)年5月21、22日

まだモノクロ写真の山も何回分かは残っているが、ここでカラーボジからの雲取山を突発的に載せたくなった。というのも、長い音信不通の末、近頃、急に蘇えってきた岡部仙人の姿を皆さんにお目に掛けたくなったからである。というわけで、以下の通り。

本欄「その1(山梨県内を中心にして)」の3番目の「雲取山」の項に岡部徹君、すなわち岡部仙人のことに触れて「好漢、今はどこでどうしているのやら」と書いた。彼は長く雲取奥多摩小屋の番人をつとめて、雲取山にこの奇人、すなわち仙人ありと令名をはせていたが、10数年前、ここで一区切りと山をおりたあと、私たちとは連絡が取れないままに時が過ぎていた。「仙人もそろそろ70をこす歳だろう、まだ、生きているのかしら。生きているにしろ、どこで、どんな暮しをしているのだろうか」と、彼をよく知る大森久雄さんや泉久恵さんと時折噂していたが、この春(2013年)、奥多摩山岳会の本多祐造さんを通じて、その安否や住所を知ることができた。今はつつがなく長野県は黒姫山麓の柏原に落着き、しかも山の紀行文集まで出版していたとは驚くばかり。

岡部仙人は奥多摩町氷川の出で、高校在学中か、あるいは卒業後間もなく奥多摩山岳会にはいってきた。私は、そのごく若い頃の彼にはほとんど記憶がないが、一時期、三条小屋の手伝いをしていた時分から親しくなり、雲取奥多摩小屋を守る一国一城の主におさまって以降は親友といえるほどにもなった。雲取山に登るときには必ずといってよいほど顔を会わせ、四方山話をするのが大きな楽しみになっていた。彼がアメリカ娘と昵懇になった時にはラブレターを書くから和英辞典を買って送ってくれと頼まれたし、次の中国娘の時には「今度は日華辞典かい」などとからかった思い出もある。

それにしても、仙人が無事達者とは、なんという朗報か。私はさっそく手紙を書き、かつ、ご著書を分けてもらえないかと頼むと、ほどなく返事と本が届いた。

その本、書名は『きょうも頂上にいます』とあって、まったくの私家版であり、奥付には彼の家の住所があるだけで、もちろん売価も記してない。添えられた手紙によると、今住む家には水道も電話もないとあって、おそらく煮炊きや暖房は薪でやっているに違いない。本も手紙もほのかに燻り臭くて、私はいかにも岡部仙人らしいと嬉しくなった。加えては猫1匹が目下の伴侶の由。

さて、ここで写真をご覧いただこう。これは今から29年前、寺田政晴君同道の山行である。日原を振り出しに、ヨコスズ尾根を一杯水避難小屋に登ったあと、長沢背稜を歩いて酉谷小屋前の広場で幕営。翌日は雲取山荘に立寄って新井信太郎さんとしばし歓談ののち、雲取山を越し石尾根のブナ坂から鴨沢へくだった。岡部仙人とは小雲取山の巻き道をおりてきたところ、雲取奥多摩小屋の少し上で出会ったと覚えている。彼は切り出した薪材を小屋へ運ぶ途中だった。



上 寺田君と岡部仙人がいて、仙人は1940年の生まれというから、この時は44歳、1948年生まれの寺田君は36歳。そうか、寺田君は仙人よりも8つ年下だったのか。その寺田君が亡くなって今年で丸7年になるのかと、私はしばし感慨にふけってしまう。「今生きていれば65歳、君もいい年になったね」。

中 この時、新井信太郎さんは49歳。彼も長年親しくしている山の友の1人。歯が欠けているせいもあって、愛嬌たっぷりの笑顔だ。

下 長沢背稜からの雲取山は、見慣れた石尾根などからの眺めとは異った山容である。

(2013.7)

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