62. 徳和川の上流・1 |
1987(昭和62)年4月19日 |
笛吹川支流の徳和川、その徳和川をさかのぼると、まず西奥山窪と東奥山窪に分れ、西奥山窪はさらに三枚窪の谷を北に分けている。
この時は西奥山窪に分け入ったあと、そのまた西に分かれる御経窪という小さな谷から尾根越して金峰牧場のある柳平にでた。
今、その記録を見れば、ずいぶん複雑な歩き方をしていて、それを文章で説明すればややこしくなるばかりだ。
なによりも縦横に朱線の引いてある、わが歴戦の2.5万図「川浦」をひろげて説明すれば簡単なのだが、それもここでは叶わない。よって陽光のまぶしい1日、寺田政晴君とその辺りを広くほっつき歩いたとだけご理解くだされば、それで充分としておこう。
なお、この時は帰りに柳平の民宿鳥居峠荘に立ち寄り、寺田君はビールを飲んでご機嫌、かつ若月さんの主人にバスの出る杣口まで車で送ってもらった。
上 西奥山窪が三枚窪と分かれる付近だと思うが、定かではない。
中 沢を離れてから尾根にあがる一帯は明るい笹原だった。今、この辺はどうなっているだろうか。30年近くもたてば、ずいぶん変わっているに違いない。
下 登りついたところは大丸戸2234㍍から南に大烏山に続く尾根上、三枚笹より少し下の鞍部で、ここには大烏山と国師岳を指す古びた道標があった。この尾根にはかすかに踏跡が見られた。道標があるくらいなのだから、以前はもっと往来のある尾根道だったに違いない。それは徳和から大久保峠、大久保山、東御殿、大烏山、三枚笹、大丸戸、ゴトメキ、白桧平、奥千丈岳をへて国師岳へ通じる道として原全教さんの『奥秩父』(朋文堂/昭和17年)の地図にも破線が記されている。
(2015.3)
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