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 2016.3 山梨県の山 (分県登山ガイド) 発売

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山旅のガイドブック
 山梨県の山 

07年8月重版。08年7月3刷。09年8月4刷
。10年1月改訂版初版発行。11年1月改訂版重版。
12年1月改訂版3刷。13年2月改訂版4刷。14年改訂版5刷

2009年4月 アルパインガイド 奥多摩・奥秩父』 が出版されました。
 
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山梨県の山   
私が2003年の暮れから取材を開始した『新・分県登山ガイド 山梨県の山』が2006年2月、山と溪谷社から出版された。シリーズの中の一冊で体裁は決まっているから、まえがきやあとがきのスペースはない。そこで自分のホームページにそれに代わる文章を載せて、自著紹介としようと思う。

この前シリーズ「分県登山ガイド」で山梨県を担当したのは山村正光氏で、発行は1993年5月。私はそれが出版されるやいなやすぐに買い求めた。そのとき、10年後に自分があとを引き継ぐことになろうとはあたりまえだが夢にも思うはずはなかった。


山村さんとはそれ以前から職場の縁で面識があったし、何より、山登りからすっかり遠のいていた私をまた山に向かわせたのは、山村さんの『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)だったから、その山村さんのガイドブックが出ると聞いて、出版前から首を長くして待っていたのを思いだす。              
    
   本を買ってまもなくお願いした署名が中表紙に残っている。


    長澤洋 様   仰ぐ頂 辿る尾根路 ふりかえる峰   山村正光


この本を参考に県内の山々を歩き回ったころは、今思えば、私の山登りがもっとも純粋な楽しみに満ちていたころだった。現在の、宿のお客さんを案内したり、ガイドブックを書くためにしたりする山登りとはまるで異なる、文字通りのリクリエーションだったと思う。
 

2003年の11月、ある会合でロッジに泊まっていた『山と溪谷』誌編集長の神長幹雄氏から、新シリーズを担当してもらえないかとの要請があったときには、寝耳に水のことで驚いた。そのとき山村さんはすでに病床にあった。もしお元気だったならそのまま担当されたと思う。前任の病気や死が後任に光をあてることは歴史の必然にはちがいないが、私にとっては、それを山村さんが聞いてどう思うだろうという気がかりがあった。もっとも、のちに山村夫人から、私がガイドブックを引きついだことを山村さんはずい分喜んでいると聞き、ほっとするとともに大変うれしく感じた。

これまでにもガイドブックの記事を担当したことがなかったわけではないが、それは本のごく一部分である。丸一冊ともなるとどうだろうか、自分にできるだろうか。ひとりでしなくともよい、数人で手分けしてもよいとのことだったが、どうせやるなら一人でという気持ちがあった。山村さんもそうだったし、たとえガイドブックでも文章で個性を出したい。翌朝には、やろう、と腹は決まった。

その年のはじめから、ロッジの集客対策として月例の企画登山をしていた。それを翌年から週例として、ガイドブックに載せる候補の山を計画に入れた。これで時間的経済的にずいぶん助かった。勤め人ではなかなか難しかっただろうと思う。これら山行の様子がそのままガイドブックを飾る写真となったのは言うまでもない。私にとっては、ひさしぶりの再訪となる山々も多かった。

予定どおりなら去年の6月には日の目を見るはずだったガイドブックは出版社の都合で遅れに遅れていたが、それでも暮れにはいよいよ仕上げの段階に入っていた。ところが、山村さんはその完成を待たずに逝ってしまわれたのであった。

以下は
2005年12月27日、山村さんの訃報に接した翌日に記したものである。


山への憧れで山梨県の学校を選び、その後も山の中に職を持っていたというのに、山登りなどまったくしない時期が8年くらいもあった。まるで興味を失っていた。そんな僕に、特に山梨県の山々への眼を開かせてくれたのが、山村正光さんの『車窓の山旅・中央線から見える山』である。今に至る甲斐の山々への巡礼の始まりであった。

その後のロッジ山旅の開業、そして今まで、山村さんに発した人の縁、本の縁によることばかりの5年間だった。山村さんが執筆していたガイドブック『山梨県の山』(山と溪谷社)を、すでに病床にあった山村さんに代わって僕が引き継ぐことになったのもそんな縁のひとつだった。予定が遅れに遅れたガイドブックもようやくこの暮れになって最後の仕上げの段階に入っていた。

10日ほど前、奥様から山村さんの病状がよろしくない旨お電話いただいた。ちょっと嫌な予感がして、その日のうちに病床を見舞った。個室には移されていたものの、意識ははっきりしておられた。ガイドブックの巻頭に載る概説を書き上げたばかりだったので、それを持参した。早速手に取って読もうとした山村さんを僕は制して、目の前で読まれたら恥ずかしいから帰ってからにしてくれと言った。

帰る間際、連れていた娘に、ちゃんとさよならを言いなさいとうながした。「バイバイ」大きな娘の声に、毛布の下で小さく手が振られていた。

一昨日、山村さんと縁の深かった、横山厚夫さん、大森久雄さんはじめ8名の方々(山村さんに紹介していただいて僕のロッジのお客様になっていただいた方々)が甲府の白砂山を歩いたあとロッジにお泊まりになった。

昨日も晴天、当然山に出かけることになった。ガイドブックの著者初校の締切が迫っている僕は、それを仕上げないことには山歩きをしていられる身分ではない。早朝に起きてなんとかそれを終え、郵便局で投函し、僕は随分さっぱりした気分になって一行と春日沢の頭に登った。

頂上からは甲府盆地が一望できる。前日に登った白砂山からは目の前に太刀岡山が大きく見えた。その太刀岡山はここからは後ろの大きい山と重なってほとんどわからない。

「あれが見えると甲府盆地は雨になるんですよ」と僕が言う。山村さんの本で得た知識である。Mさんが「あっ、それ覚えてる。私、山村さんの本を持って中央線に乗ったもの」。

その頃、眼下に眺めていた盆地から山村さんが昇天されていようとは。

かつて隅々まで歩き回った懐かしい甲斐の山々を、今頃はさらに高いところから心ゆくまで眺めておられることだろう。

さようなら。ありがとうございました。 

    

1997年11月、古希のお祝いを淵ヶ沢山でしたときの山村さんと夫人と私    
                    






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