49.石砂山西峰、川上ドッケ  2017(平成29)年5月2日

「お召し列車」とは、深田澤二さん命名の中央線は東京駅8時50分発の快速直通大月行。荻窪9時16分、西荻窪9時18分、立川9時44分、八王子9時58分、高尾10時9分にとまって、藤野10時30分、上野原は10時34分の到着。その辺のせいぜい500bほどの山に登るのならば時間もそうかからないので、四季を問わずに皆さんご愛用の電車である。ことに寒い季節には、朝遅く暖かくなってから家を出られると好評だ。高尾乗換の面倒がないのもいい。この陽春の日も、登るのが藤野下車の石砂山となれば、やはり「お召し列車」にしくはない。荻窪の横山二人のほかに、八王子から中村好至恵さん、高尾では深田夫妻が乗ってきて総勢5人となった。 そして、上々のお天気に皆さんご機嫌麗しく、お馴染み藤野交通のタクシーに乗り継いだ。

歩き出しは菅井下。澤二さんが「今度はフジとツツジの花が咲いているところに行きたい」といっていたが、ものの10分もしないうちに「どうです、この美しさ」。道の両側、屋敷の庭に咲くフジもツツジも塩梅よく満開の美しさで、足を止めて見入った。また、山道にかかれば新緑はまぶしいばかりの鮮やかさ、眺める峰山も緑のパッチ模様の衣装をまとって、「あぁ、いいなぁ」の一言だった。

石砂山は東西に並ぶ双子峰である。東峰は578b、普通、石砂山に登るといえばこちらのほうで、大方のガイドブックも、菅井下‐石砂山(東峰)‐篠原のコースを説明している。一方、西峰は東峰よりもほんの僅か低くて572b、東峰に登るついでに、その分岐から往復するのは簡単だが、その先の北に向かって下っていく尾根には踏み跡程度しかない。ことに川上ドッケ499bを過ぎて篠原川に落ち込む辺りになると、至極あいまいになってくる。私は3度とも違うところへ降りついた。

この日は、あえて川上ドッケ経由の下りを選んだ。というのも、深田夫妻は前に、菅井下から石砂山(東峰)に登ったことがあり、その時は一般コースを篠原へ降りたという。そこで、今回は趣向を変えて川上ドッケ経由で降りてみましょうとなった。

西峰は、東峰との分岐からほんの10分。眺めはないが雑木林に包まれ、人臭さのないよい頂上である。しばしの小休止のあとは下る一方、小石社のある川上ドッケで一息ついた。ここから先が難物で、右下に篠原の家並が見え始めるころから、今日はどこへ降りつくかになった。と、なんと、これまでなかった出来たてほやほやの車道が尾根の左側に上がってきているではないか。これならどこかへは下れると、その車道を選べば、あっけないくらいにとんとん拍子、やまなみ温泉と篠原を結ぶバス道の釜沢の停留所近くに出た。塩梅よく、3時少し過ぎの篠原尾の返しの折返しのバスがあり、やまなみ温泉乗り換えで藤野駅に戻った。「澤二さん、今日は少々あやふやなところを歩るかせて、すいませんね」「そんなことありませんよ、面白かった」の一日。

補記 

1.私が石砂山へ最初に登ったのは1984年1月、望月達夫さんに誘われ、あとは望月さんと同じ東京商科大学(現・一橋大学)山岳部先輩の近藤恒雄、佐々木誠さんのお二方、それに寺田政晴君を加えての5人。道志川筋の伏馬田から、まず、石砂山へ登り、いったん篠原へ下ってから石老山702bへ登りなおして顕鏡寺側へ下った。この時のことは『一日の山・中央線私の山旅』(実業之日本社/1986)に「石老山」として載せてあるので、それをご覧いただければ幸いである。なお、この時、最年長の近藤さん82才、佐々木さんは71か72才、望月さん70才、それに寺田君36才だったが、皆、亡くなってしまった。それにしても、短い冬の日に、よくあの長丁場を歩いたものだと思う。顕鏡寺におりついた時には暗くなっていた。

2.近藤恒雄さん(1902〜1993)とは、この石砂山に同行した折に知り合い、のちに奥秩父や箱根などの山に計4回ご一緒している。がっちりとした体格の方で山はとても強かった。雲取山に同行した折、「少し疲れたから、ここでちょっと」とブランデーを一口ふくむと、とたんに元気を取り戻されたのが驚きだった。本欄「モノクロ その2」の「岩戸山」、「その2 カラー篇」の「95.唐松尾山、笠取小屋」参照。『山の本』2020年夏号掲載の藤島敏男「思い出すままに」にも、その片鱗が語られている。

3.藤野駅前発やまなみ温泉行のバスには終点から東野、篠原へ接続する便もあったが、今はなくなってしまった。「お召し列車」も平日休日で少し時刻が変わる場合もあるので要注意。

(2020.5.31) 
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