中山の旧道を探る(長坂上条

去年の春の木曜山行で中山に登ったときの記録に以下のように書いた。

「一般道を歩くのでは見ることのできない御神燈がある。前回訪れたときにはきちんと立っていたのが、どういうわけか倒れていたので、名古屋のNさんと協力して立て直した。ここには当然神社があったわけだが、昨日はこれまでと少々尾根筋を変えて登ったおかげで、この神社に至る径を発見できた。これはすなわち中山への旧登山道のはずである。近いうちに、この中山への旧登山道と中山峠の旧道も探りたいと思う」(参考リンク)。

昨日の木曜山行は、天気は曇りだし、おとみ山と二人だけだし、どこぞにいい案はないかと考えてこの懸案を思い出した。伐採で俄然展望の山となった中山は、去年の12月号の『山と溪谷』で紹介したから多少は登山者も増えたかもしれない。自分で宣伝しておきながら何だが、もう展望に新味はないし、初めての人とならまだしも、手練れのおとみ山と整備された道を歩くのもつまらない。

大正時代の地形図を見ると、台ケ原から2本の道が中山峠へ向かっている。東西にある道の、主要なのは宿の中心地に発する東側のようだが、これは現在の地形図からは消えていて、破線が残っているのは西側のものである。昨日歩いた結果、これも途中からは現在の破線とは違うことがわかった。もっとも、今でも幅広の道が残っているのは、大正時代の地図の道筋だった。

道の入口、また、途中には馬頭観音などの石造物が集められていて、おそらく山中にあったものを降ろしてまとめて祀ったのではないかと思われる。旧道の入口によくある光景なので、新道でもできて、以前の道筋を使わなくなった時に信心深い土地の人たちがそういった作業をしたのではなかろうか。

予定どおりに歩いて頂上に着く直前には雪が舞いだした。展望台の休憩舎はこういったときにはありがたい。中で早い昼休みをするうちに、窓の外の地面はみるみる白くなった。帰りは中山峠へ下り、今の地形図にある破線をたどって台ヶ原にもどった。

諏訪隠(霧ヶ峰)

ロッジの周りには、この冬まったくといっていいほど雪がない。2月の初めに夜じゅう雨が降って、真冬の、それも夜の雨なんて最近の現象で、かつては真冬の雨なんてなかったように思う。降れば必ず雪だった。

それでもさすがに標高が1500m以上ともなれば雪だったらしく、1月中にはほとんど雪の見えなかった霧ヶ峰もそこそこ白くなっていた。ここのところたわらさんの写真を整理して、カボッチョのスノーシューを懐かしく見ていたから、一度くらいは雪を見に行くのもいいだろうと木曜山行での計画を考えた。

6年ぶりにカボッチョでスノーシューとも思ったが、さすがにあれだけ全山が白くなるほどの雪ではなかろうし、そうならやはり前のほうが良かったなと思うだろうから癪である。そこで、スノーシューを履くほど大げさではなさそうな諏訪隠を目的地にした。

諏訪隠(すわがくし)の名前は昭文社の地図によるが、その監修者の手塚宗求氏の著作によると、現在の車山高原スキー場一帯の草原を諏訪隠と呼んでいたらしい。大門峠あたりから見たとき、諏訪方向に立ちはだかる稜線とでもいう意味であろうか。ここで言うのはその先端部分である。

車で行けるところまで行けば散歩にもならない諏訪隠だから白樺湖畔からの周回コースを設定した。しかし無雪期なら軽い山歩きにしかならないその設定が災いして、結局、目的地まで届かなかった。要するにまったく人の歩いていない雪にトレースをつけなければならなかったうえに、その雪の状態も悪すぎた。標高差100m足らずを登るのに1時間かかる始末で、登るには登れても、下りで相当な苦労をするだろうと、昼飯を食べたところで早々とあきらめて下山することにした。中高年隊はあきらめが早いのである。

スカッとした青空に白き山々の展望も満喫したし、まあ上出来としましょう。
帯那山(甲府北部)

20年近くも続いている木曜山行は、県内の日帰りで行ける範囲のめぼしい山のほとんどに足跡を残している。自分自身も参加者も年齢を重ねているので、数年前からは「健康」の文字を加えて、無理をしないような山行が主眼となっている。となると選択肢はせばまって、前に行った山でもまた行きましょうとなる。

帯那山には手を変え品を変え何度となく登って、前回は2年前だし、太良峠は去年の11月に歩いたばかりだから、もうおなじみ過ぎるくらいの山域だが、地元のHさんが未踏だというので計画してみたら、当のHさんの都合もつき、この山の身上の展望も満喫できたのだから幸いだった。寒い日ではあったが、日当たりのいい草原にいる分にはゆっくりと過ごすことができた。

たった2年でも様子は変っていて、頂上一帯の原には何基もの新しいベンチがしつらえてあった。アヤメの時季にでも来ればそれなりの人出があるのだろう。山頂南にある石祠は2年前に倒れていたのを起したのが、今回もまた倒れていた。数メートル上の大木の根元に礎石が残っているから、そこから落下したのだろうが、ひとりでそこまで運ぶには力が足りない。そこで落ちている場所に立て直したのだったが、地面が安定していないからまた倒れたのだと思う。また起こしておいたが次に来るまで倒れないでいるだろうか。文化十年と彫られているから、当時にはこの山奥へと多くの人が仕事に入っていたのだろう。実際、大正初期の地図を見ても、太良峠や帯那山の周辺にはおびただしいほどの破線が入っているのである。

電波塔付近の伐採はほぼ終了したらしく、殺伐とはしているものの甲府盆地の東から南にかけての展望はすばらしい。あと5年くらいは大観が得られるだろう。

2年前とまったく同じ、太良峠を基点にする周回コースは、歩きやすさや展望の面で、冬の第一級のハイキングコースだと思う。冬ならではの静けさがまたよろしい。昨日もハイカーは皆無であった。
瑞牆山麓逍遥(瑞牆山)

八ヶ岳に移住したころ、瑞牆山麓で全国植樹祭があって、それを批判したことがある(参考リンク)。

以来20年、いったい何度この、みずがき山自然公園となった植樹祭会場跡を訪れたことか。そして今では当初の批判の気持ちなどとっくに薄れていることは確かなのである。それだけその景色が当たり前になったと言えるだろうか。植樹祭にからんで周辺に整備された歩道は置き土産とでもいうべきで、まず利用者もいないまま自然に還りかけて、しかし私のような者にとっては立派な道なので、軽い樹林の山歩きに利用してきた。一般に瑞牆山麓の渓谷は、増富温泉側の本谷川沿いが有名で春秋の人出も多いが、この釜瀬川(天鳥川)流域が私の好みで、その理由は明るさである。

久しぶりにすがぬまさんが参加するというので、ならばスケッチに好適な場所がいいだろうと思った。そこで車道が通行止になるので今まで行ったことはなかった冬の芝生広場へ歩いて行ってみようというのが昨日の計画になった。

たどるのは、かつては松平牧場だった場所で、それがいつしか美しい林となっている。牧場跡だけに傾斜は総じて緩やかで、まさしく逍遥というのにふさわしい。径などまったくなくとも、見渡す限りどこを歩いてもいいのである。早く通り過ぎるのはもったいないと何度も休んだ。樹林越しに、近くには瑞牆山の岩峰群、遠くには白い八ヶ岳や南アルプスが見えるのがまた魅力を増している。

たどり着いた芝生広場は完全貸切、すがぬまさんが入魂で作品をものす間、おとみ山と私はとんでもない広さの芝生の上でこのうえなく怠惰にゴロゴロしていたのであった。

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