富田治三郎氏告別式 |
1960(昭和35)年1月31日 |
山とは違い、ここに、こんな写真を載せてよいかどうかは大いに迷うが、懐かしい山の人が写っているので、あえてお目にかけることにした。
まず、本欄の「国民体育大会」の1枚を見てください。その一番下の写真で、こちらを向いている坊主頭の人物が「雲取山の鎌仙人」といわれた冨田治三郎さん、また、その右に後ろ姿で大きく写っているが日高信六郎さんである。日高さんは、当時、日本山岳会の会長であり、また、このこの国体の登山部門の大会長だった。写したのは、1959年10月の、多分27日であり、場所は雲取山荘の中。
富田さんは、前々から長く患い、この国体の期間中もはかばかしくなかったようだが、一世一代の晴れ舞台と一時ながら元気を取り戻した様子だった。丁重にお願いすると、国民服姿で威儀を正し日高さんと並んで、私のカメラにもおさまってくれたものである。しかし、国体が終わってからは寝たきりになり、その約2ヶ月後の12月23日に亡くなってしまった。1902(明治35)年生まれの57歳。山荘の脇に薪を積んで荼毘に付したと聞いている。
その翌年の1月末日、渋谷の日本山妙法寺での富田さんの告別式は、山小屋や山岳会関係などの親しかった人たちが大勢集まり、まことに盛大に行われた。そして、お経に合わせて大小の銅鑼が耳をつんざくばかりに鳴るなど、ここはラサのラマ教寺院かと疑うようなお葬式だった。
なお、このほかには樽井秀美さん、高田孝さん、内野暢雄さんなど奥多摩山岳会の方々が写っている何枚かもあり、それらを見ていると、しぜんと「あの日のこと」が思いだされてくる。毎度いうようだが、今から半世紀以上前の写真ともなれば、「皆さん、なんとお若いことだろうか」。
追記 富田さんについては新井信太郎さんの著書『雲取山に生きる』(実業之日本社/1988)に詳しく述べられている。
上 笠取小屋の田辺正道さん。正道さんの背広姿とは珍しい。
中 氷川山荘の真鍋健一さん。右奥には田辺さんがお顔を見せている。なお、真鍋さんについては本欄「本仁田山」を参照のこと。
下 三条の湯の木下孟一さん(右)。お顔が白くとんでしまって申しわけない。そこで、1項目3枚と決めた本欄の例外中の例外として、4枚目の柱のかげからお顔をのぞかせている写真を載せておく。左に大きい横顔は田辺さん。
(2014.2)
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