藪を漕がなかった兎藪 |
JR中央線の下り列車は韮崎駅を出ると七里ヶ岩台地への急勾配を駆け上がる。やがて車窓には南アルプスや八ヶ岳を真打とする豪華な山岳風景が展開するが、その前座をつとめるのが茅ヶ岳と金ヶ岳の連山である。兔藪と呼ばれるのは、金ヶ岳が北西に長く延ばした裾野の端に砲弾型に盛り上がる人跡まれな山である。 私がこの山に初めて登ったのは99年、つまり、ひとまわり昔の兔年の正月も半ばを過ぎたころだった。それには干支にかかわるこんな姑息な魂胆があったのである。 毎正月に新年の干支を名に持つ山に登るのを慣わしとしている人たちがいる。兎を名に持つ山は山梨県では兎藪くらいしか見当たらないから、そんな好事家たちが正月早々この山に登ったはずだ。となると少しは踏跡もはっきりしているのではないかと考えたのである。 ところが実際に行ってみると、数日前に降った雪がくるぶしくらいの深さで積もっており、踏跡を追うどころではなかった。しかし山名から案じたほどの藪はなく、雪の中に1449mの三角点を見出すことができた。 2度目はそれから3年後だった。その間に私は兎藪の近くに引っ越してきて、思い立てばすぐに登れるようになっていた。おりしも新緑のもっとも美しい五月の半ばで、このときに私はすっかりこの山が気に入ってしまったのであった。 山というよりは山径が気に入ったのである。両側を低い尾根に挟まれた、ごく浅いが割りと広さのある沢筋の径である。かつての炭焼き径だという。沢筋といっても水が流れているわけではない。地面はしっとりしているが陰湿ではない。大きく育った植林の落葉松や赤松が多いが、それだけでもない。頭上を埋めた木の葉の合間を縫って五月の陽光が射し込み、地面に光と影が揺れる。淡い緑、濃い緑、なんと沢山の種類の緑色があることだろう。採りごろの新芽をつけたおびただしい山椒の木をくぐって進む。頂上に近づくと樹林の雰囲気はさらに良くなって、ミツバツツジの紫がいたるところで文字通り森の色合いに花を添えていた。 それから、もう10回は登ったろうか。だが1度も他の登山者を見たことがない。 この静寂そのものの兔藪には麓から約2時間半で登ることができる。金ヶ岳へと結べば1日の面白い山歩きとなるだろうが、いずれにせよ初心者だけでは少々難しかろう。 |