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兎藪

深田久弥終焉の山としてすっかり有名になった茅ヶ岳におされて、お隣の金ヶ岳は少々分が悪いが、位置や図体の大きさからみると、この火山の盟主はこちらであろう。

この山の北西の裾野に、寄生火山だろうか、ずんぐりと盛り上がった1449mの三角点を持つピークがあって、兎藪と呼ばれている。ところが、多分その名の出典と思われる原全教氏の『奥秩父續篇』によると、ここは三ツ頭とある。兎藪は、ここから金ヶ岳の頂上へ至る尾根の一部分をさすらしいのだが、詳らかにはされていない。景徳院で果てたはずの武田信勝が真田昌幸にかくまわれてこの兎藪に逃れたとの伝説があるという。

いつの間にか三ツ頭に兎藪の名があてられるようになったのだろうが、ここでは現在の呼び方にしたがって1449mピークを兎藪と定義しておこう。麓の江草からこの山を経て金ヶ岳に至るルートは、ごく好事家向きではあろうが、径の素晴らしさ、静けさ、伝説、と第一級の価値があると思う。

この山に初めて登ったのは四年前の正月で、江草から往復した。冬のこととて、そう藪に苦しめられたわけでもなかったが、葉の繁る時季向きではないようにも思われた。

3年前、ひょんなことからこの山の近所に住まうことになって、朝な夕なに眺める親しい山となった。そして、これもこの地に来てから親しくなった日本山岳会員の坂本桂氏から、先回僕が登ったのとは異なるルートで兎藪に登り、金ヶ岳まで足をのばしたという話を聞いた。兎藪から金ヶ岳の尾根上には祠があって、なんでまたこんな場所にと不思議に思ったという。そこが原全教氏のいう兎藪だろうか。先の武田信勝の伝説を思い起こすではないか。

そんな話に遊志をそそられ、兎藪に再会し、そのまま金ヶ岳へ登って東光にくだろうと企てたのは去年の5月半ば、新緑のもっとも瑞々しい時季だった。

江草の根古屋神社の近くまで車で送ってもらい、かつて獅子吼城(ししくじょう)があった城山の南を巻いて登っていく狭い車道をひとり歩き出した。道が城山の隣にある行人山の東に達すると、行く手は高原状に開ける。右手は兎藪からくだってくるなだらかな尾根が荒れた畑地の奥を区切る。左手には冬ならば斑山越しに八ヶ岳の白い波頭が並ぶところだ。

いくつかの分岐を過ぎ、道はせばまって暗い林の中へ入っていく。やがて屈曲をくりかえして高さをかせぐようになると、路肩は崩れ、もはや車は通行不能と思われた。

暗い北側の沢沿いに続いていたかつての車道は、突然明るい尾根に出て終わる。兎藪から西に延びた尾根がいったん広く平坦になる部分で、その地形から机と呼ばれている。この一帯を開発しようとして車道がつけられていたわけだが、それも沙汰やみになったらしい。ここまでは先回僕がたどったのと同じルートである。

すこし東へ進むと、かぼそい踏跡が右手の低い方へと続いていた。これが坂本氏に教えられた径で、昔の炭焼き径の名残だという。先回はこれに気づかずに尾根どおしに進んだわけだが、もし気づいたとしてもそれをたどろうとは思わなかっただろう。

この、南北を低い尾根にはさまれた、ごく浅いが割りと広さのある沢筋の径は実に素晴らしかった。沢筋といっても水が流れているわけではない。地面はしっとりと湿った感じもするが陰湿ではない。大きく育った、植林とおぼしき落葉松や赤松が多いようだが、決してそれだけでもない。空をも埋めた木の葉の合間を縫って5月の陽光が射し込み、地面に光と影が揺れる。緑、緑、緑。なんと沢山の種類の緑色があることだろう。そしておびただしい山椒の木。これだけの山椒の森を見たことがない。地面をも被った緑の中に明滅する茶色い径筋を拾い、山椒の枝をくぐって進む。

勾配が増し、沢と尾根が判然としなくなりはじめるころ、南側の尾根にあがると、かつてたどった北側の尾根と合流するまでわずかな距離だった。そこからは明るい雑木林のはっきりとした尾根の漫歩となる。やがて正面の高みを避けるように踏跡が右にそれていくが、この高みこそ兎藪である。

今朝の出発点だった麓の江草には、語れば長い話なので略すが、仙人とも天狗ともつかない異形の者がこの山中を跳梁跋扈していたという伝説がある。その名を孫左衛門という。そして、この明治38年に埋設された三角点名も孫左衛門なのである。なんとも面白いではないか。『孫左衛門山』。いい名前だと思うのだが。

三角点にあいさつし、すぐに元の踏跡に戻る。尾根が細くなって径ははっきりしてくる。正面にまだ高い金ヶ岳を見ながらいったん鞍部へくだると、あとは登り一辺倒となるが、それも最初はのんびりしたものである。さきほどの沢筋の緑にくらべてまるで淡い緑と、これまた淡い三つ葉ツツジの紫を楽しみながら歩いていると、径の脇に屋根だけになった石の祠があった。

柱だった部分は長い年月に朽ちてしまったのだろうか。何か確かめられることはないかと文字を探したがが見つからなかった。原全教氏は、武田勝頼が新府城を築くとき、茅ヶ岳は北の城塞として考慮されただろうと推察しているが、そういった歴史と関係があるのだろうか。それともただ山仕事の鎮守か。

信勝はこの兎薮を経て北側の麓の岩ノ下へ潜み、大峠(観音峠の西)、長窪峠、木賊峠と越え、ついには信州へと遁れたという。真偽は別として、こんな伝説が生まれたのも、ここに実際に山越えの間道があったからかもしれない。人知れず新府から山越えして岩ノ下へ下るには、地形的に理屈に合うのである。

尾根が広くなり、傾斜が強まって、ごろごろと積み重なった苔むした岩を伝うようになると踏跡も怪しくなるが、もう高いところにさえ登っていけば間違いない。再び尾根がはっきりすると、わずかで金ヶ岳の山頂だった。遠望こそきかなかったが、何ともいえない明るい緑が萌える山腹をしばし愛でた。

東光への下山路は、実にほどよい傾斜で、足まかせにあっという間に下ってしまった。山中、誰一人に会うこともなかった。

2万5千分の一地形図 『若神子』『茅ヶ岳』

コースタイム

江草(1時間15分)机(1時間40分)兎藪(2時間)金ヶ岳(1時間30分)車道

アドバイス

行人山の東、車道が送電線とクロスするあたりまでは車が入る。今年も兎藪までは登ったが、赤布が増えていた。

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