| 山仲間 I のこと かつて I という山仲間がいた。彼とともに岩登りの世界に入り浸っていたのは、1972年から78年の間で、その後、お互いいくつかの人生の節目を経て、疎遠のままに月日だけが過ぎていた。ありがたいことに私は同じ趣向を持つ山のパートナーに恵まれていた。彼もそのひとりで、私の5歳年下で手足が長くクライミングの場面では誰より写真に写り映えのする男だった。今でこそ山へ行っても小さなデジカメでメモ代わりに写真を撮る程度だが、その頃の私はアクティブな山のシーンを撮ることにクライミングと同じくらい情熱を燃やしていた。山の雑誌では小森康行さんや安久一成さんのような素晴らしいクライミング写真のパイオニアたちの作品がグラビアを飾っていた時代でもあり、私もずいぶん刺激を受けたものである。 先日思い立って簡素な廉価品のフィルムスキャナーを手に入れ、 I と登ったときの写真をフィルムからパソコンのデータに取り込んだ。プリント版では全コマを大判で見るような機会はあまりないが、デジタル化しスライドショーで一覧すると、プリントを貼り付けたアルバムとはずいぶん違った印象を受ける。ここに紹介するのは、もう40年も昔のものだが、モノクロは文字通り色褪せることなく若き日の I がモニターの画面いっぱいに躍動している。 花鳥風月を愛でる山登りならいくつになっても楽しめるが、クライミングはやっぱり血の気の多い若い時代でなくては楽しめない。やがて肩に他者への責任を感じるようになると一線から退いてしまうのが普通である(もちろん普通ではない人もいるが)。きれいごとではなく、それだけクライミンクにはリスクが付いて回る。格闘技などと同じで技量を磨けば磨くだけ、挑戦対象のレベルも上がっていく。知らぬ間に危険水域を越えても格闘技なら命までは失わないが、クライミングの場合はただではすまない。 I は山で2度大きな事故を起こしている。最初はこの写真を撮った73年の秋、谷川岳の岩壁をソロで登攀中に墜落、九死に一生を得てその後の1年を治療で棒に振った。翌年、四肢の自由が回復するとすぐにまた山にのめり込んだが、77年春に鹿島槍ヶ岳で再び滑落事故を起こした。その間にもアルプスの大岩壁やサハラ砂漠の巨大な溶岩ドームを登るなど、よく遊びよく登った男だった。だから先日、 I の訃報に接したとき、私は彼の早逝を残念ではあるけれども気の毒とは思わなかった。彼は彼らしく自分の人生を生き切ったと信じたかった。 振り返れば1973年は I がもっとも山で精彩を放っていた時期だった。ヒマラヤの高峰やアルプスの三大北壁が多くの若者の心をとらえた幕開けの時代にもあたる。彼もまだ痛い目に遭ってはいなかったし、何より自信に満ち溢れて当時最高レベルの登攀を次々に行っていた。そのいくつかのクライミングシーンをここに紹介し、若き日の彼を偲ぶよすがにしたい。 |
| (投稿 2014.11.20) |
T.冬の記憶 八ヶ岳大同心正面壁 1973年1月中旬撮影 U.真夏の試練 黒部奥鐘山西壁 1973年8月上旬撮影 V.初秋の空間を舞う 穂高屏風岩東壁青白ハング 1973年9月上旬撮影 |