吉田山(南大塩

体調を崩していた名古屋のやまんばさんが久しぶりに参加したい、どこかリハビリ的に歩ける山ならと言うが、そもそも最近の木曜山行は常にリハビリ的山歩きなのである。ゆっくり出ても昼には頂上に着いていて、飯を食ったらさっさと下って温泉ドボンというパターンである。

ここのところ甲府盆地周辺へばかり出かけていたので、帰名するにも便利な諏訪方面の山を考えて、毎度毎度の吉田山に決めた。山のある茅野市民の森は冬は閉山だというが、入山禁止というわけでもあるまいと何度も冬に出かけている。

山中に迷路のように作業道が錯綜しているのは何のためだったのか、かつては車が通ったのだろう道は、歩く分には傾斜がごくゆるいのでのんびり歩きには最適である。

我々の住処には雪は皆無に近いのに、似たような標高の茅野では道路脇にも凍った雪がかなり残っている。山中では8割くらいは雪を踏んで歩くことになった。雪は深すぎず固すぎずといった状態で、ことに下りでは膝が楽だった。要するに雪山ハイクとしては最高の状態だったわけである。

今回はすがぬまさん、中村さんと画家がふたり参加していて、下山途中には、見慣れたのとはまるで違う姿の八ヶ岳を描く余裕があったのも、時間に追われない山ならではだった。

桜峠~天狗山~野背坂(塩山)

3年前、天狗山に出かけて、ちょっとしたアクシデントで登らないまま引き返した。(参考リンク)

手ごろな山だし、今度はきちんとてっぺんを踏もうと地図を眺めていたら、いつのまにやら山の東側の野背坂をフルーツラインが延伸して越えているのに気づいた。野背坂とは要するに峠道の坂路の名前だが、そんなものが地形図に載っているのは珍しい。

桜峠から天狗山を越えて、野背坂の峠まで縦走してみたらなかなか小粋な縦走ではなかろうかと考えたのが昨日の木曜山行になった。

名古屋からはNさん、横浜からは中村さん、そして私、と同年生まれの若手?が揃い、それに年齢はふた回りばかり上だが、どんな若手よりも元気なおとみ山が毎度のごとく加わった。

桜峠への径は前回よりさらにヤブに埋もれ、今の季節だから何とかなるが、葉が茂ったらどうにもならないだろう。径形も上部ではあるようなないような状態である。桜峠の北側には作業車が入れるくらいの道があるらしいのだがまだ歩いたことはない。山旅サイトに載せてもらっている横山さんの撮った1980年の桜峠の面影はまったくない。(参考リンク)


まるで足跡のない雪の稜線を歩くのは気分が良かった。前回と同じ伐採地で富士を眺めながらの昼休みとした。そのすぐ脇が罔象峠という珍しい名前の峠で、はっきりとした峠道が越えている。近くには石祠があって、横山さんの写真で、望月達夫さんがのぞき込んでいるのがこれである。

天狗山への屈曲部のピークが伐採され大菩薩嶺の方角に展望がきいたので、しばし中村さんの創作タイムとなった。先般の雪で山々が白くなっていて迫力がある。

天狗山の頂稜に出ると、初めて人の足跡が雪の上に現れた。ひとり分のその足跡は、おそらく野背坂方面からに違いないと思っていたらそのとおりで、消えたり現れたりしながらも最後まで道連れとなった。同類の物好きがいるものである。

天狗山から野背坂までは忠実に主稜線を歩くなら地形図と首っ引きになる。雪とおびただしい倒木で思った以上に時間がかかった。途中には人工的な広場や打ち捨てられた廃車もあって、かつては農地として利用されていたのかもしれない。

野背坂側にはケモノ除けの柵がびっしりと張りめぐらされていたので、うまく外に出られるか心配していたが、ちょうど扉のあるところに出たのは冴えていた。
城山(鴨狩津向から下田原へ)(切石)

3年前のちょうど今ごろ、六郷町の上ノ平山を歩いた。そのときには中部横断道はこの山に突き当たったところ、すなわち六郷インターまでしか通じていなかったのが、今や新清水まで全通しているのだから驚いてしまう。

上ノ平山付近の地形図を眺めていて、その南に城山という名前の山が目に付いた。地形図に山名記載があると注目しやすい。いつかこれに登ってみようと、前々から作戦は練ってあったのだが、実現できずにいた。今週の山を考えていて、寒い時季だし、暖かい地方へ行くのもいいだろうと思い出したのである。前日まで行先に悩んでいたので、参加者は年間エントリーのおとみ山だけであった。

冷え込み厳しく、八ヶ岳や甲斐駒が神々しいほど白くなった朝だった。せっかくの展望日和に、身延くんだりまで低山歩きに出かけるのもどうかと考えたが、初志貫徹と中部横断道を南下した。

現在、中部横断道のその名も城山トンネルがこの山域を南北に貫通しており、昨日は、そのトンネルの真上を北から南へと縦走したことになる。地形図を見るからに紆余曲折がある稜線は、そのとおり行きつ戻りつ実に面白い縦走となった。

登山口には立派な境内を持つ高前寺があって、その向かいには城山神社がある。参道に張り出した「双幹の欅」と名付けられたケヤキが見事である。神社の上に墓地があって、その上にかつての径があったのだろうと思われたが、手ごわそうな竹藪が行く手を邪魔していて気勢をそがれる。ままよ、どうせ短い距離だろうと突入、予想どおり長くは続かなかった。

あとは城山頂上まで径があるようなないような植林地である。結構な急登をこなしてたどり着いた頂上には三等三角点があったが、不思議なことに今の電子地形図には記載がない。城山というからには、かつては何等かの建物があったのだろうがまったく痕跡はない。地形には人の手が加わっている感じがある。

上ノ平山の頂上一帯がかつての耕地だったのと同じく、この山域でも縦走中の至るところに人の営みの跡が見られた。飯場らしき跡だったり、打ち捨てられた作業車だったり、農機具小屋だったり、段々になった耕地らしき跡だったり、忘れ去られたような墓地だったり、神社だったり、廃屋だったり、要するに、今は人影はなくとも人臭い山だった。

概して明るい稜線は、かつての耕地には植林がされなかったからだろう、杉や檜の暗い林が続くのかなという心配はまったく杞憂に過ぎなくて、とても明るい山だった。同じ甲州でも甲府盆地周辺の山とはまったく雰囲気が違うのが新鮮でもある。ここには手を変えてまた行きたいねとは我々ふたりの感想だった。

傘山(三才山)

旧四賀村の傘山を知ったのは岡田喜秋氏の本で、氏の傘寿記念に松本在住の知人(岡田氏は旧制松高出身)の案内で登ったという内容だったと思う(その本が何だったか忘れてしまったので確かめることができない)。岡田氏は昭和初年の生れだったはずだから、もうかなり前のことになる。

傘寿記念に登る山として伊那谷は飯島町の傘山が有名で、これにはおとみ山の傘寿祝いで登った。そのときに一緒だったたわらさんも、めでたく傘寿を迎えた去年、別ルートから再び登ったという。

さて、今週はそのたわらさんが参加するというので、ならば今度は冒頭の傘山に登ってもう一度お祝いしようじゃないのと考えた。れっきとした登山道のある伊那谷の傘山と違い、こちらは小粒とはいえ地形図片手に登る山である。去年の春、お隣の富士塚山に登ったとき、ここから登ればいいのだなと取り付き点の目星はつけてあった。

有名な福寿草の群落も、寒い今年は開花が遅くなっているらしい。現地に行ってみると北を向いた群落地の土手にはまだ雪がたっぷりと残っていた。旧四賀村からの北アルプスは前衛の山越しになってなかなか味わい深い。そこでの主役、常念岳は真っ白な姿を現していた。

なるほどこれは秋には入山御法度のはずだと納得の美しいアカマツの山である。登るにつれて傾斜を増す斜面を、ケモノ道だかキノコ採りの道だかわからない踏跡を適当に拾って登っていった。頂上直下に至って、やっと雑木が増えてきた。

コンクリート製の祠がある山頂には眺めはない。ワインでも担ぎ上げてお祝いをとも考えたが、道もないような山でアルコールは禁物だと最近は慎重になっている。それは下界でのまたの機会とし、それぞれの飲物で乾杯とした。

帰りは一気に下ってしまえば話は早いが、このあたりの山も最近の例にもれず、ケモノ除けの柵が張り巡らされている。適当に下って柵に突き当たったら出るに出られない。そこで、途中で出会った、地形図にない林道を下ることにして、これはかなり遠回りではあったが、のんびりと下ることができた。

とにもかくにも、傘寿の歳でこんな山に登れるというのはたいしたもの、あらためてお祝い申し上げます。

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