永明寺山(南大塩

例年、新年第一回の木曜山行は神社のある山を探して参拝がてら登り、現地で新年会をするという習わしだったが、あいにく運転手が確保できず、今年は普通に山歩きをしたのち、地元に戻って軽く新年のお祝いをすることにした。

神社のある山は2.3候補があったのだが、それはいずれかの機会として、代わりに選んだのは永明寺山である。

茅野から諏訪へと向かうとき、霧ヶ峰から長く延びた稜線が市街地へと落ちる寸前に盛り上がっているのが見える。これが永明寺山で、あれはなんという山だろうと調べ、頂上一帯が公園になっていて道路が通じていることを知り、さっそく車で行ってみたのがもう15年も前のことになる。以来訪れたことはない。

車で行ける山に歩いて登るのはわりと好みで、要するにそんな山を歩いて登ろうという人は少ないから、頂上はいざ知らず、登っている間は人に出会うこともないからである。山は人が少ないに限る。

登路に選んだ尾根筋には径というほどのものはなかったが、藪もなく、なかなか気分のよい林が続いていた。尾根筋には点々と土饅頭があり、各々にポールが立っている。古い塚を今でも利用しているのだろう。

頂上直下で突然公園の整備された歩道に出るのもなかなか面白い。広大な公園には展望台がふたつもあって、その位置からして豪華な山岳展望が得られた。ここに通じる車道は冬季通行止めというわけでもないらしいが、冬に来るところでもないのか、人っ子ひとりいないのは不思議な光景で、まるでSF映画にでも出てきそうな、人類が滅びたあとの一場面のようである。

公園から一歩出ると、とたんに藪山になった。地形図にはない、車の通れる幅の作業道が錯綜していてとまどうが、まあ初歩的な藪山ではある。葉の茂る時季では少々面倒になるだろう。

茅野と諏訪の市界の西側の稜線(普通ならこの稜線上に市界がありそうなものだが、奇妙なところに境界がある)を北上して、北を横切る車道まで歩き、あらかじめデポした自転車で車の回収に向かうつもりだったが、途中で昼飯を食っているうち、なんとなくそれも面倒になってきた。なにせ寒いので、自転車に乗るのが嫌になってきたのだ。

「ここらでやめて、車へ直接下りましょうか」という提案に、誰もが願ったり叶ったりという顔になったのは喜べばいいのか、悲しめばいいのか。ともあれ全会一致で、そこからは車へと一直線に下った。

帰る途中で食材を買い出し、山歩大介さん宅の座敷を借りて、まだ明るいうちからの新年会となった。部屋から見える富士山が暗闇に見えなくなるまで宴は続いた。

大松山(仮称)(瑞牆山)

計画では甲府の大笠山だったが、参加者がおとみ山だけとあっては、今年から実施した人数縛りを残念ながら早くも行使しなければならなくなった。

それならそれで地元にはいくらでも山はあるという好条件なので問題はない。ここはひとつ自分の興味で山を選ばせてもらおうと選んだのは「増富の湯」の裏山である。

私の勝手な分類で、これまで本谷川以北を「増富山地」としていたわけだが、かつての行政区分を基準とすれば、現在の鳥井坂トンネルの上、鳥井峠から東に延びる稜線が旧江草村と旧増富村の村境なので、それから北側を増富山地とするのが妥当かもしれない。

さて、旧村境から本谷川の間にも興味深いピークがひしめいている。ここでの主稜は、木賊峠北の袴腰から1713.9m三角点(点名大岩)を経て、日向集落から日影集落へ越える峠へと続く稜線で、地形図を見るからに一筋縄ではいかないことが想像される。木賊峠側から前述の三角点までは行ったことがあるが、核心部はその先である。

それを西側からある程度たどってみようというのが昨日の計画であった。目的地を1282m標高点の南側のピークとした。

出発前に日影のトチの大木を見学した。去年の『山の本』に、この木と井伏鱒二の文章を題材にして駄文を草したのだが、実際にその木は見たことがなかったというていたらくで、おくればせながら見物することにしたのであった。今は葉が落ち切っているが、茂っていればさらに豪壮な木だろうと思った。

尾根歩きを始めると、先行する足跡が雪に残されていた。おそらく猟師のものであろう。途中、赤松の大木がある小突起には石垣で組まれた台座の上に石祠があったりもした。昔は、山は生きる糧だから今よりはずっと尊いものだったのだろう。

尾根を林道が乗り越すところは墓地になっており、その先で猟師の足跡は沢筋に離れていき、そこからは新しい足跡を雪につけていった。

目標にしていたピークには展望も何もなく、ただ枝ぶりのいい赤松の大木があった。そこで大松山と仮称することにした。わずかに戻った陽だまりで昼のひとときを過ごした。

時折北風が強まるとおそろしく寒い。滑りやすい雪の急傾斜も下りは早かった。目星をつけておいたところから沢筋に下っていくと、うまい具合に「増富の湯」の真裏に出て、下山後間髪を入れず冷えた身体を温泉にドボンとできたのである。

兎藪(茅ヶ岳・若神子)

干支が名前に付く山に登ってみようという遊びは山選びに困っている身としては好都合で、これまでに何度かそれで計画を立てた。去年は猿焼山に登った。

さて酉年は選択肢が多い。そこで少しひねってみたのが兎藪で、言うまでもなくこの山は卯年にひっかけて登るのが本来だが、なぜ兎の数え方を「羽」で表すかを考えれば酉年に選んだ意味がわかる。まあ起源はトンチではあろう。

調べてみたらこの山に木曜山行で登ったのはもう7年も前で、そのときは金ヶ岳へ登る途中に立ち寄ったのだった。これはなかなか登りでのあるコースで、今ではそんな計画は最初から立てようとはしないところに時の流れを感じる。

その7年の間に麓の風景はすっかり変わってしまい、広大な体験農場やソーラー発電所が山裾に出現している。最初に登ったときにたどった、机(兎藪西尾根末端の平坦地を形状からそう呼ぶ)に達する林道も倒木や崩壊ですでに車の通行は不能で、往時の記憶がないと入口すらわからない。代わって、机の直下には金ヶ岳や茅ヶ岳の北側を輪切りする林道が通じている(まだ地形図には載っていない)。

机からは浅い沢を登っていくのだが、ここにはかつての炭焼き道が通じていたとは先年亡くなった坂本桂さんに教えてもらった。この沢沿いは山椒の群生地で、新芽を摘みに来たことが何度もあるが、昨日見たところ、かなり木々が伐採されているようで、ならば半日陰を好む山椒は減っているかもしれない。

兎藪には10回は登っているが、登り方は毎回違う。要するに好きに登ればいいわけで、机に達しさえすれば、あとは東に向かって歩きやすいところを登っていけばいいのである。登りに関しては簡単な山だといえるだろう。それにしたってれっきとした径があるわけでもないこの山のことを、どういうわけか今まで「山の本」「岳人」「山と溪谷」のいずれにも書いている(http://yamatabi.info/usagiyabu2011.html)。兎藪に関する報道があれば、専門家としてコメントを求められるかもしれない。ないか。

心配していた積雪はさほどでもなかったが、それでも頂上近くに達して傾斜が緩むと一面の雪原になった。ケモノの足跡の上に人の足跡をつけていく。三角点(点名孫左衛門・伝説も残っているので、孫左衛門山としたほうが良かったと思う。誰が最初にこの山を兎藪としたのかは不明)よりさらに東側が少々高いので、そこを頂上として昼休みにする。ちょうど正午のチャイムの音が下界から聞こえてきた。おとみ山とふたりだけの静かな山頂である。枝越しに近い金ヶ岳が雪をつけてなかなかの迫力である。

天気は尻上がりに良くなってきてはいたが、やはり1450mではじっとしていると寒い。それでも50分近くを頂上で過ごしていた。

こんな山は下りのほうが難しい。慣れている山だからと適当に下っていったら、思惑よりは北側に出てしまった。例の輪切り林道を展望のいいところがあるのではと東に向かって歩いて行ったら、果たして大展望が広がった。林道下部が大伐採され、南アルプスから八ヶ岳、奥秩父までが一望である。ことに八ヶ岳の位置がいい。林道からの景色だというのが玉にキズだが、これはすばらしいとしばらくは撮影会となった。

林道からは下りやすい尾根を探して下ったが、上部ではバラ藪に閉口した。

今年に入って木曜山行は3回目だったが、いまだひとりにも山中で出会っていない。


山之神社〜三ツ俣尾山〜桜峠(市川大門)

去年、桜峠から西の稜線を3度歩いた。かつては藪尾根だったこの稜線がトレランのコースになってすっかりいい径になっているらしいことを知り、実際に行ってみて、径がいいうえに浅間山からの眺めも気に入って再三歩くことになったのである。

それで桜峠から東の稜線も思い出し、久しぶりに歩いてみようと計画したのが昨日の木曜山行で、あらためて調べてみると前回は2008年の春先だったのだから、はや9年が過ぎていることに驚かされた。山之神社界隈はそれ以後何度も訪れているので、それほどの時間がたったようには思わなかったのである。

いかにも甲府盆地の冬といった快晴になった。しかも無風なのはありがたい。

山之神社へは北斜面の参道を登るとはいえ、我々の住処よりも積雪が多いのには驚かされる。その雪面がかなり踏み固められているのは、中央市の最高峰だという「たいら山」のことが喧伝されたからだろうか、昨日も役場の車から降り立った数人が我々の先を登っていくのが見えたが、たいら山とは反対方向に行く我々と出会うことはなかった。

千本桜で知られるこの参道だが、桜がかなり弱ってきているらしく、弱った木の手入れをしたり、あらたに苗木を植えているとは、登山口で出会った、その活動をしている人に聞いた話である。

神社の手前の展望所からは最高の展望が得られた。ことに八ヶ岳がすばらしい。そのすぐ上、神社裏手の広場で新年会をしたのは2010年の正月のことだった。車座になった10人が大笑いしている写真を帰ってから懐かしく見返した。

神社の上に林道が開通して、それ以前を知っている者には、この神社の山深いところに建つ雰囲気が台無しになってがっかりだが、この林道のおかげで、芦川北側の稜線歩きではもっとも難しい部分がいとも簡単に歩けるようになったのは幸か不幸か。

林道が山の南側にさしかかる場所の陽だまりで昼休みをしたあと、三ツ俣尾山への稜線にかかると一気に藪っぽくなる。ケモノ以外の足跡はなく、積雪以来の入山者はないようだ。前回は頂上三角点近くで昼休みとしたのだが、そのとき幼木だったヒノキの植林が大きくなっていて、今ではとても休憩をしようという場所ではないのには9年の歳月を感じた。

再び林道を横切るまではいっぱしの藪山だったが、その先には「弓建嶺」と書かれた木札がひんぱんにあり、径もはっきりしていた。いったいこれは何だろうと思って歩いて行ったら、見覚えのある石祠が建つ場所をそう言うらしい。麓が浅利与一の生れ在所であることにちなむ伝説があって、『甲斐国志』にも記述があるという。それで中央市有志が整備したとはネットで調べて知った。

http://toyokyoudos.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ab66.html

http://toyokyoudos.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-0caf.html

ここから再び藪っぽくなった稜線が桜峠まで続く。桜峠から西は刈り払いした跡がくっきりとわかる。

桜峠からは旧道を下ることにするが、わりとはっきりしている旧道も倒木で一筋縄ではいかない。旧道は尾根のすぐ下に付けられているが、その尾根上には天明時代の馬頭観音があるのを、私が前回の木曜山行の前にひとりで下見をしたときに偶然見つけた。旧道を忠実にたどるとこれにまみえることはできない。

この馬頭観音を再度見てみようと記憶を頼りに藪尾根に突入、わりと簡単に見つけることができた。そのうえ、そこからすぐ下、何やら人工的な直方体の岩が転がっているのを、倒れた石仏などを見つけるのを得意としている私がめざとく発見、近づいてみるとやはり礎石で、それに隠れて仰向けに石像が倒れていた。起こしてみると馬頭観音で天保の字が読めるから上のものより半世紀あとである。しっかりと立て直してきた。しかし、こんな場所では再び拝む人が現れるのはいつのことだろうか。

下山したところが温泉というのが東西どちらから歩いてくるにしろ桜峠で下山したときのいいところ。間髪を入れず、再び八ヶ岳の展望をほしいままに露天風呂にドボンと浸かって大団円となったのである。

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