大沢山(笹子・河口湖東部

大沢山も猿焼山に引き続き、横山さんの本で読んではいたがまだ残していた山である。もっとも頂上は八丁山方面から縦走したときに踏んではいたが、その本にあった北東尾根が未踏だったのである。見るからに私好みの長く延びた尾根だが、どういうわけか縁が結べずにいた。

Aさんからリクエストがあったので、ちょうどいい機会だとばかりにこの尾根を伝って登る計画を1月に入れたのだったが、直前の大雪で、おそらく誰も踏んでいないだろう雪をラッセルして標高差800mを登るのはちょっと荷が重いだろうと恩若峯に変更した。そこで、新緑時に再挑戦することにしたのである。

御坂の山は樹林が格別だし、しかも北斜面はことにいいので、きっと新緑がすばらしいことだろうと思っていたが、尾根筋そのものは南面が植林地が多く、想像していたほどではなかった。圧巻だったのは頂上直下でブナがちらほら現れてからと、下りにとった女坂峠への尾根筋だった。

20年前に歩いたのは4月の半ばで木々もまだ芽吹きが始まったばかりだったのだろう、あまり樹林の良さの印象がないが、その20年で山の見方が変わったこともあると思う。そのときに多く咲いていたイワカガミのことを計画に書いておいたが、群落はもっと八丁山に近いほうだったらしく、昨日の行程にはイワカガミが好むような岩場はなかった。

八丁山から達沢山に至る稜線には道標など皆無だったが、今ではところどころにおそろしく立派な標識がある。林務所で造ったこの標識は県東部の山ではよく見かけるが、あまりに立派過ぎてこの手の山では浮いた感じもする。大沢山にはその立派な標識以外にもベンチまであって、ありがたく座らせてもらって昼のひとときを過ごしたのだった。おそらくこのベンチを設置したころに木を伐採して富士山を見えるようにしたのだろうが、それがまた伸びて富士を半分隠していた。それでも天気が下り坂で富士までは見えないかと思っていたので、笠をかぶった富士が見られたのは幸運だった。

かつて歩いた時に、女坂峠には立派な石垣が残っていたのを不思議に思って、御坂峠の茶店の先代の主人に尋ねたら、通信用の地下ケーブルが通じていて、それを建設したときの名残りだと教えてもらったが、その後手に入れた古い地図にはたしかにケーブル線が描かれており、峠道の破線もそれに沿って入っている。

これをもう少ししっかり見ておけばよかったのに、地中にケーブルを埋めるほどの工事をした道なら、さほど苦労もせずに見つかるだろうと峠から適当にトラバース気味に下り始めたのだが、結局道筋が見つけられず、自分だけなら道があろうがなかろうが一気に下るがそうもいかず、最初の思惑通りには下ることができなかった。

家に帰ってから昔の地形図と現在の地形図を子細に検討すると、なるほどと思い違いに気づいたが後の祭りである。まあ、下りつくつもりでいた場所には下りついたので良しとするが、参加の皆様には余計なアルバイトを強いてしまった。

水ヶ森(甲府北部・茅ヶ岳)

5月半ばから6月にかけては新緑の最も美しい時季で、甲府盆地周辺の山ならどこへ出かけてもまず失望することはないが、それだけにまた山選びには悩んでしまうのである。

水ヶ森北峰から西に長く延びる尾根は、地形図で見るからに私好みで、実際に歩いてみてすっかり気に入り、一時期よく歩いた。稜線の北向きが地形図からもわかるとおり絶壁になっていて、そこを埋めた広葉樹がことにすばらしい。月日のたつのは早いもので、木曜山行で出かけて8年たっている。それなら久しぶりに歩いてみようかと計画に入れたのだった。

弓張峠(地形図の位置は間違い)から水ヶ森はすこぶる急登なので割愛し、直接北峰の南鞍部へ登ろうと思っていたのだが、水ヶ森が初めてという参加者もあったので、それではごくオーソドックスに水ヶ森へも登りましょうかということになった。甲府盆地東側からこの稜線を見たとき、兜型の水ヶ森が一番目立つのだから、一度は登っておくといい思い出になる。

水ヶ森林道を車で入れば30分で登れる山だが、それでも帯那山あたりに較べると入山者は段違いに少ない。それを西側の麓から登る者など皆無に近いが、立派なコンクリート造りの道標が残っていて、かつてはハイキングで訪れる人も多かったらしい。

5月に入って最高の好天となった。前日の雨でとにかくすべての山々がくっきりとしている。登山口へ向かう車窓からだけでも美しい5月の山を存分に楽しむことができた。

登山は林道歩きから始まるが、途中では堰堤工事をしており、その奥にも2基の新しい堰堤ができていた。その堰堤に林道が断ち切られるので、初めての人なら少々とまどうかもしれない。弓張峠への入口は半分草に埋もれていた。道標が残っているので峠への入口がわかるが、それがなくなれば発見が難しいかもしれない。

下部は草深いものの上に登るにつて峠道ははっきりし、明るい弓張峠へ着く。すぐ脇に舗装路が通じているのだから少々がっかりするが、富士の眺めはすばらしい。

水ヶ森へは鉄砲登りだし、たどり着いた頂上から展望があるわけでもないから、登る人も少ないのだろう。かつては草原状の頂上にはワラビが多かったが、もうほとんど絶えてしまったようだ。

木曜山行はバカ話をするために山に登っているようなところがあるが、昨日の水ヶ森の頂上でも、新緑のシャワーのもとで1時間もバカ話に興じた。

このコースのハイライトは何と言っても西尾根の下りである。緑のすばらしさは言うに及ばず、今までは花期ではなくて気づかなかったのか、シロヤシオツツジが盛りで、ところどころで歓声があがった。藪というほどの藪はなく、まるで整備された公園内を歩いているようなところもあって、当然多少の地図読みは必要なものの、山は静かに限るという向きには最高の稜線である。むろん昨日も誰にも会わなかった。

クルマの置き場所はいくらでもあり、うまく周回でき、と、ほぼ完ぺきななマイカー向きの山歩きコースである。


獅子岩(御所平)

今週の木曜山行は太平山の予定だったが、参加者が少なかったので、臨機応変に行先を変えることにした。太平山の計画を立てたのはあの稜線の緑がことのほか美しいからだが、それはこれまでにも見ているし、今年の芽吹きの早さからすると、新緑というにはすでにかなり濃くなっているかとも思われた。そこで黄葉の盛りにでもまた計画することにし、少人数のときならではの山選びをすることにしたのである。参加者も勝手知ったる人ばかりだから、こちらの変心には鷹揚なので助かる。

それで選んだのは獅子岩だが、さすがに飯盛山の獅子岩ではなく、高登谷山の尾根続きにある岩峰である。これはなかなか手ごわい山だから、人数が少ないときでなければ登れないし、参加する人の能力も当然関係してくる。なにより藪と岩を厭わない人でなければならない。参加のおふたりはその点安心なので獅子岩を選んだわけだ。

高登谷山の一般ルートは高登谷別荘地からで、これで何度も登ったが、ちょっとうるおいに欠けるルートで、他にもうちょっとましなルートはないものかと探し、北東尾根の末端から取りついたのはもう15年近くも前のことである。これは出色のルートで、その後高登谷山はすべてこの尾根を使って登っている。しかしそれもかなりご無沙汰になっているのは、川上村には限らないにしろ、そこいら中に入山禁止の札があるからで、その偏狭を見るのが嫌になってしまったからである。

そのとき、ものはついでということもあるから、そのまま甲信県境へと縦走し、獅子岩も越えたのである。かなり手ごわく感じたが、しかし初冬だったせいか、こちらが若かったせいか、さほどの藪漕ぎはしなかった記憶があるのだが。

むろん今回は高登谷山は割愛し、獅子岩だけに絞ることにする。さすがに標高1800m近い稜線は芽吹きは始まったばかり、ミツバツツジも咲いている。だがのんびりした気持ちのいい稜線歩きは、まず最初の岩壁に突き当るまでで、そこからはとにかく山勘を最大限に発揮しなければならない。

あたりにはシャクナゲが多くなる。今年は当たり年のようで、花芽は多く、しかも半分くらいは早くも咲いている。きれいだねと喜んでいたのはしかし最初だけで、やがてもうシャクナゲなど見たくないというようになったのである。経験した人にはわかるが、シャクナゲの藪漕ぎは相当手ごわい。

ともあれ、岩をへつり藪を分け、なんとか頂上にたどり着く。とにかく大展望が楽しめるのはこの手の岩峰ならではで、苦労が報われる瞬間であった。ゆっくりと1時間を過ごした。

すぐ先に建っている大送電鉄塔は目障りだが、これがあるので巡視路を使えるという利点もある。獅子岩頂上から鉄塔までは250mしか離れていなのに、たどり着くのに1時間もかかってしまった。藪に関しては、頂上以前より手ごわかった。獅子岩から高登谷山側にはマーキングの類は皆無だったが、鉄塔側にはあったので、そちら側から往復する人があるのかもしれない。しかしそれでもかなりの難行であろう。GPSがあれば何とかなるといった山ではない。

鉄塔からさらに先の岩峰まで登って獅子岩の全貌を眺めたあと鉄塔に戻って南斜面を下ったが、むろん道などあるはずもなく、しかし地面が柔らかくて快適に下ることができた。


男女倉から鷲ヶ峰(霧ヶ峰)

鷲ヶ峰に北麓の男女倉から登ってみようというのはかなり前から考えていたことだった。 
 
先年亡くなった、コロボックルヒュッテの手塚宗求(むねやす)さんの著書に『遠い人 遥かな山』(筑摩書房)があって、そこに「男女倉」という文章がある。
 
それによると男女倉という集落ができたのは養蚕業がらみで、明治になってからのことだというから比較的新しい集落である。しかしその男女倉から本沢沿いに八島湿原へ出て下諏訪に下る、いわゆる男女倉越は、中仙道の和田峠を堂々と越えられない者たちの裏街道だったわけで、これは集落ができる以前からあったはずだから、集落名はもともとあった道の名前から付けられたということになる(現在の地形図には、ゼブラ山を越える破線に男女倉越とあるが間違い)。
 
手塚さんは、この地名の由来がわけありの男女の話だったらロマンがあるなと想像していたというが、実はもっと即物的で、本沢沿いの径から見上げた山腹に、男根と女陰を思わせる岩のあったことがその由来であると結論づける。要するに、この「男女倉」という文章は、その結論を得た岩を探しに行く話なのである。
 
この文章を読んで、男女倉越から鷲ヶ峰に登ると面白そうだと思ったのが、いつまでも後回しになっていたのは、35年前、人跡まれで、やがて廃道になってしまうだろうと手塚さんが書いている、本沢沿いに続いていた男女倉越の径があったところには、いまや替わって堂々たる林道が山奥まで通じているからで、それを歩くのも少々味気ないなあと思っていたからだった。
 
ここのところ何度も鷲ヶ峰に登って、むろんそれはビーナスライン側からだが、鷲ヶ峰の東側のふたつの肩から北方向に延びる尾根が、歩くといかにも気持ちよさそうで、男女倉越はともかく、この稜線を木曜山行で歩いてみることにしたのである。行くならやはり新緑の時季に限る。
 
数日前の悪天の予報は見事にくつがえって、願ってもないような好天になった。
 
あらかじめ考えていた道筋とはちょっと違ったが、これは毎度の臨機応変、思っていたとおりの美しい尾根には人というよりは鹿の径が続いていた。
 
鷲ヶ峰の頂稜が近づくと例の大展望も開けた。こんな方法で鷲ヶ峰に登ろうとする人はめったにいないだろうから登る途中に人影はまったくなかったが、遠足シーズンでにぎわっているかと思われた一般道に出てからも5人と出会っただけの鷲ヶ峰だった。これなら頂上でお昼にしても良かったが、日当たりが良すぎるし、どうせなら誰も来ない場所でのんびりしようと、頂上のすぐ西の肩から北に下って、花盛りの一本のズミの木陰で長い昼休みをした。
 
不思議なことに、他はまだつぼみが多いズミの木の中で、このズミだけが満開で、良く見ると花が大きい。違う木なのかもしれないが、とりあえずはこの場所をズミの丘と名付けた。この界隈ではダケカンバの丘と並んで、最高の昼寝場所である。

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