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2009.7 ころぼっくる・ひゅって にて

 山に生きた文人、手塚宗求氏
             
『現代登山全集6・八ガ岳』(東京創元新社)に収められた「山ずまい」という文章に感銘を受け、私は霧ヶ峰の山小屋、ころぼっくる・ひゅっての主、手塚宗求氏の読者となった。もう二十年近くも前のことである。

この文章は小屋の愛好者によって発行されている『ころぼっくる』第一号に発表されたと出典に明らかにされているが、全集の編者のひとりに手塚氏と親交のあった山口耀久氏が名を連ねていることから、おそらく山口氏の選んだ文章であろう。その慧眼はさすがだが、当の手塚氏本人は氏の文章の中でも白眉だと私が思うこの一編を十指にあまる著書の中には収めておらず、誰もが読める状態にないのは残念である。

これを読んだ当時、私は人里離れた山中の茶店で働いていたから、手塚氏の山暮らしの話がことのほか琴線に触れたのだろう。もっとも、そこに書かれていたのは小屋の草創期の昭和三十年代初頭のことだから、同じ山暮らしといっても高度成長期を経たその四十年後の私の生活との隔たりはあらゆる点で画然としていた。

すでに暖衣飽食の時代にあった私は、貧困や不便のあった時代へのおよそ身勝手な憧憬と羨望を持って手塚氏の山暮らしの文章を読んだ。この身勝手とは、いったん手にした快適や便利を今さら棄てることなどできはしないのに、それらがないことから生じていた情緒ばかりを欲しがろうとすることをいう。これは国全体が豊かになった今、貧乏だった少し昔の生活を懐かしむ世間の風潮に似ている。つまり私は手塚氏の文章を昔話として読んだのであった。その点では私と、同時代的に手塚氏の文章に接した人とは感じ方が異なるだろう。

しかし同時代に山口氏が良しとして選んだ文章を後の時代に私もまた良しとするならばそこには普遍的なものが含まれているはずで、それは手塚氏の文章が持つ独特の叙情だったと私は考えている。

山小屋を建て、自然の中で自分が理想とする暮らしを築こうという憧れと、しかし一方でその自然や人為が無残に憧れを打ち砕いていく過酷な現実。山の文章に多い、行きずりの旅人の視点とは一線を画した手塚氏の叙情の独自性とは、甘美な恍惚と手痛い覚醒が同居していることにある。

叙情はともすれば甘く感傷的な表現に流れやすいが、書くにしろ読むにしろその甘さを感じる味覚は年齢や時代によって変わる。ただし青年の文学が甘美さにこそ妙味があるのは確かなのだ。だから若い時分に書いた文章を後に読み返してその甘さゆえに恥ずかしく感じることは多々あることで、手塚氏も自分の若い日の文章を推敲したい欲求にかられたことを書いている。その意味で冒頭にあげた「山ずまい」を自著に収めなかったのではないかと想像するのである。

だが私は手塚氏の文学の真骨頂は清新な希望と気負いに満ちた氏の青春の文章にこそあったと思う。文章は多かれ少なかれ追憶によって書かれるものだが、それらは日々の山小屋暮らしとほぼ同時進行で書かれた日記に近い文章であった。

年齢を重ねれば追憶はより遠くなる。ころぼっくる・ひゅってがぽつりとあるだけだった車山の肩に観光道路ビーナスラインが通じ、付近一帯が一大リゾート地へと変貌していってから書かれた手塚氏の文章は、そうなってしまう前の追憶にとりわけ傾いていった。かろうじて以前と変わらない自然の風物にからめて高原の過去を語ることが多くなった。

手塚氏の志したのは山中の要所にあって悪天や疲労に行き倒れそうになった登山者の救いになるような山小屋だった。ところが道路の整備によってその役目は薄くなり、山小屋というよりはドライブインや喫茶店のような要素が強まっていったことだろう。辺鄙な場所を好んで住もうという人は自然に関しては本質的に保守的だから、その急激な喪失と自らの小屋の変質への怒りにも似た葛藤は当然あったはずだが、その葛藤は怒りというよりは諦めに近い哀歌のような形で書かれることが多かった。無常観もまた手塚氏の特質である。

開発による観光客の増加は小屋の経済を一気に向上させただろう。車や電話や電気の利便は肉体的な労苦を一気に軽減しただろう。物事が表裏一体なのはこの世の常である。開発による恩恵を受けながら能天気にそれを批判することは手塚氏にはできなかったのに違いない。そこに住まない詩人になら「霧ヶ峰挽歌」と題して文章を書くことは簡単だったかもしれないが、その地に根ざす手塚氏にはついに屈折した形でしかそれを書けなかった。

ころぼっくる・ひゅって創設五十周年記念出版の『わが高原 霧ヶ峰』(山と溪谷社・2006)は一見霧ヶ峰讃歌ともとられようが、古き良き霧ヶ峰を語ることが挽歌でなくてなんだろう。

八ヶ岳南麓に住むようになってから私は霧ヶ峰へ行くことが多くなった。十年くらい前、あわよくば署名をもらおうと手塚氏の本を何冊も車に積んで行き、思いを果たすと同時に手塚氏と面識ができた。その後数回お会いしたが長く話をしたことはない。

手塚氏の訃報に接したのはこの十月半ばに手にした山岳誌の記事だったが、偶然その数日後に蓼科山に登る計画があった。

蓼科山の広い頂上の西の端に立つと中信高原が眼下に一望となった。真下に見える台地状の八子ヶ峰からいったん大門峠に下った稜線は、再び盛り上がりやがて四散して霧ヶ峰のおおどかな高原をつくる。その起伏の柔らかさは変わるまいが、手塚氏の文章に描かれた、建物とてほとんどなく、そのすべてが茫漠と草に覆われていた半世紀前の風景はとうにない。

気象観測ドームが目立つ車山山頂の右下にはころぼっくる・ひゅっての防風林がちらりと見える。その木を植えた人もいなくなってしまった。

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