
1990年代の前半、この板沢山に始まって、上越線沿線残雪期の山に日帰りで何回か行っている。浅松山、尼ヶ禿山、吾妻耶山、向山、高檜山、朝倉山、唐沢山、大戸屋山、三国山などであり、その大半が寺田政晴君と一緒だった。彼は雪庇や雪の壁がたちはだかる危なっかしい箇所ではよろしく先導してくれたし、家人が雪解け増水の沢に足を踏み外した時には襟髪掴んで引上げてくれたものである。
板沢山の標高は1146.6㍍、寺田君が『薮山辿歴』(望月達夫・岡田敏夫共著/茗溪堂/1988)からヒントを得、「岡田さんたちは秋に行ったと書いてあるけれど、雪のある季節もよいかもしれませんよ」といいだして大当たり。低山とは思えない大きな雪庇がとびだしていたりして、気分爽快このうえなしだった。以後、これに味をしめ、この季節になると2.5万図を鵜の目鷹の目、よさそうな山を探しては出かけるようになった。
なお、ここで思いだすのは、高崎駅や水上行きの電車で何回か顔をあわせた、私と同年輩のHさんという人。彼もそうした山に登っていると話しかけられ、文通もするようになった。「この辺の残雪の山には、これが一番です」とゴム長靴の、なかなかのお人と見受けたのだが、いつしか便りもたえてしまった。今も、健在だろうか。
上 なんと、この雪庇。「気分爽快」「痛快至極」でなくて、なんであろうか。
中 右手高くに谷川岳の耳二つ。これも、まだ真っ白だった。
下 水上からタクシーであがった石神峠、つい朝方までは雪が降っていたようだった。
(2014.6)
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