小金沢連嶺・2 
   1962(昭和37)年4月22日

私が小金沢連嶺を最初に歩いたのは1953年11月下旬のことで、それ以来、この尾根は10回ばかり歩いている。黒木の林と明るい笹原が交互に現れて興趣満点、しかも眺めがよくてと、東京近くの縦走コースでは奥多摩の石尾根と双璧をなすものだろう。

1963年7月にご同伴で歩いた折の写真は、すでに本欄に「小金沢連嶺」として載せたが、こちらの3枚は、その前年の奥多摩山岳会の例会に参加したときのもの。春夏秋冬、何時、何度たどっても飽きない小金沢連嶺ゆえに、その「2」を載せておこう。いずれカラー版もお目に掛けようと思っている。



上 天狗棚山を巻きおわって狼平へのくだりにかかると、正面には小金沢山がどんとたちはだかるようになる。黒木に覆われて堂々の山容だ。4月下旬というのに、まだ雪が消えずに残っていた。

中 当時、奥多摩山岳会ではスケッチがはやっていた。秋山平三君が今日も色鉛筆を動かして余念がないが、口の悪い輩が覗きこんでは「うわ!! ナンガパルバット、たいした迫力だねぇ、隣のカンチェンジュンガも立派なものだねぇ」。挙句の果てに「なんだ、ただのチリガミまるめたカミの山か」とは随分失礼な話というほかはない。前方左手に大きいのは雁ヶ腹摺山。

下 今は跡形もない大菩薩館。私は長い間、定宿にしていた。中央手前の眼鏡&正ちゃん帽が秋山君。彼は立川駅南口商店街にあった大きな薬局の御曹司で日大は文学部小説科専攻。「なにを勉強しているんだい?」とたずねると、「ヘミングウェイです」の答え。「じゃあ、アーネスト・ヘミングウェイって横文字で書けるかい?」には、「うーん、でもね、横山さん、ヘミングウェイはみんな翻訳があるから支障はありません」。結局は書道塾経営の大先生に納まって成功したが、私は彼の書いたナントカ流の字を読むと、いつも船酔い同様に気分が悪くなった。戯れ口をたたきながら山を歩くのには絶好の友人だったが、惜しいことに2008年4月に73歳で亡くなってしまった。「兵六玉」を略しての「ヒョーロク」、あるいは「平公(ヘーコー)」が通称で、奥多摩山岳会のイジメラレッコのナンバー・ワンだった。

(2013.7)

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