鳥の胸山  1990(平成2)年10月28日

昨年、暮れも押しつまった12月28日に丹羽彰一さんが亡くなった。昨年はやはり親しくしていた山友達の坂本桂さん、岩瀬皓祐さん、三上智津子さんが亡くなり寂しい思いをしていたところへ、重ねての丹羽さんの訃報だった。「なんとしたことか」としかいいようがない。丹羽さんは私より2歳年上、望月達夫さんを通じて知り合った。

それは、かれこれ20数年前のこと。望月さんが「僕の大学の後輩という人から、こんな本が送られてきた。君の好きそうな薮山にもけっこう登っているようだよ」と貸してくれたのが、丹羽さんの私家版山の紀行文集だった。なるほど、その通り、私はすっかり嬉しくなってしまった。そこで私と同じ中央線沿線の国立にお住まいとも知って、さっそく読後の手紙を書いたことから親交が始まった。山へは15、6回ほど同行し、ご夫妻でわが家へみえたことも何回かある。それになによりも、丹羽さんはこのロッジ山旅の特筆すべきリピーターであったことを明記しておかなくてはならない。ご家族連れでも何度か泊まり、その女のお孫さんは渓ちゃんと同年輩で、よい遊び友達だったとも聞いている。

以下の鳥の胸山紀行は、丹羽さんの私家版『雲と水と』V(1993)に載るもので、少し長くはなるものの、その全文をお読みいただこうと思う。
   鳥の胸山、秋の味覚のお土産つき(2年10月28日)

いつものように国立駅前で横山夫妻をピックアップした。今日は僕にしては大変な早起きで午前五時半の出発だ。高速藤野から413号線国道を経由して7時半には城ヶ尾峠のキャンプ場横に着いた。目標は5万分の1地図「秦野」の左上隅にある標高1207.8メートルの「鳥の胸山」、この山の登路はどの地図にも記載されていないのだが、横山さんは昔「あけぼの橋」というバス停から登ったことがあるそうだ。だが先日(9・8)菰釣山への往路でこのキャンプ場横に「鳥の胸山登山口」の道標のあるのを見つけたので、今日はこの道を登るつもりだ。

道標に従って静かな林の中を登って、見晴らしのよい支尾根上で色づきはじめた紅葉を眺めて先ず一休み。路はこの支尾根から1146メートルの標高点(平指山)へと繋がっている。この標高点から左折して小さな鞍部を過ぎる。このあたりはゆるやかな路で息の切れることもなく、やがて三角点標石の周囲に小さく開けた「鳥の胸山」の山頂に登り着いた。まばらな木立のなかの落ち着いた感じの山頂で、西側に道坂峠や今倉山方面が見渡せる。まだ昼食には早すぎる時間で、僕らはコーヒーを飲みながら静かな秋の気配をゆっくりと楽しんだ。

紅葉の始まった木立の路を山頂から北に向かって進むと、急斜面の山腹に長い丸太道が下りていた。花や「きのこ」に詳しい横山夫人が「ナラタケ」(奥多摩では「アシナガ」と言うのだそうだ)をとり始めた。それは至るところに群生していて、これ以上は持ちきれないほどに二つのビニール袋がすぐに一杯になった。

ゆっくり下りて正午すこし前には車に戻り着いた。秋空の下の道志の山々を眺めながら僕らはサガセ川のほとりに座って昼食とした。

帰路は綱子を過ぎる峠越えの道に車を走らせ、船久保の身代わり地蔵の祠に立ち寄った。日だまりの船久保の集落は何とも好ましいたたずまいで、横山さんは「いい所だね」と何度も声を上げた。斜面の畑を耕していた人が菜っ葉を持っていけという。秋の味覚のナラタケと新鮮な菜っ葉のお土産つきの、心豊かな秋の一日の山歩きだった。




追記 

丹羽さんには私家版の紀行文集『雲と水と』全3巻(いずれも小部数の限定)と白山書房出版の『残照の山々』の著書がある。上記掲載の「鳥の胸山」は縦書きを横書きにし、数字の表記は漢数字をアラビア数字に改めた。文中「だが、先日(9・8)菰釣山」とあるのは「先日の9月8日に菰釣山に登ったこと」を意味し、その時も私は同行している。

(2013.1)   

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