五社山、三大明神山、明神山
 1974(昭和49)年
     12月31日〜75年1月3日

2年続けて年末年始にかけ阿武隈の山に登った。みな望月達夫さんの誘いで、この1回目のときは村尾金二さんと統一さん父子、それに郡山の室次男さんが一緒だった。

望月、村尾のお二方は共に一橋大学山岳部の出身で、望月さんはとって村尾さんは無二の親友だった。山の中でも、なにかと楽しそうに話が弾んでいたが、なんとしたことか、村尾さんはこの阿武隈から帰って間もなく胃癌とわかり、幾らもしない10月下旬に亡くなってしまった。

望月さんの著書『忘れえぬ山の人びと』(茗溪堂/1986)には、村尾さんを偲ぶ想いがせつせつと綴られている。私はこの1回しか山にご一緒したことはないが、小柄で村夫子然とした方だったというのが記憶の中の村尾さんである。その後、統一さんとは偶然山へ行く電車の中で会ったこともあったが、その統一さんもわりに早く癌で亡くなったと聞いている。



上 五社山山頂の望月さんと村尾さん。この日は出戸の湯という鉱泉宿を予約してあったが、夕方着くと、もう来ないかと思ってほかの客を入れてしまったという。それは困まると交渉し、1部屋しかないあばら家のような離れに入れてもらった。統一さんの適語「ここは根岸の里のわび住まい」と、村尾さんが「これはいい」と縁側から小用をたしていたのが忘れられない。

中 三大明神山への道の村尾さん父子。村尾さん父子はこの三大明神山から別道をとって一足先に帰った。望月さんと私たちは上遠野の飴屋旅館にもう1泊し、さらに明神山に登ったが、当時、望月さんは今西錦司さんの向こうを張って1000山登山にご執心だった。

下 三大明神山710bへの登り。この山一帯は牧場になっていた。

(2013.4)                       

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