藤里駒ヶ岳
  1974(昭和49)年6月15~17日

秋田県の北部、青森県との県境近くにある標高1158㍍の山。『コンサイス日本山名辞典』(三省堂/1979)によれば日本全国で駒ヶ岳と名のつく山が16あって、これもその1つ。秋田県の藤里町にあるところから、藤里駒ヶ岳の名で一般に知られている。

私は望月達夫さんに誘われて登りにいったのだが、そもそもは、望月さんが越後の笠原藤七さんに誘われたのが、ことの始まりだ。

笠原さんは新潟県村松町の山持ちの大旦那で、慶応大学では大島亮吉と同世代の山岳部で活躍したといい、望月さんも一目おく山岳会の大長老だった。その笠原さんが日本全国の駒ヶ岳と名のつく山全部に登ろうと一念発起し、そのとばっちりが望月さんを介して、こちら夫婦にも及んできたというわけの3日間。あの頃は、実に付合いのよい夫婦だったと、我が事ながら感心してしまう。



上 登りと下りは別ルートで、下る途中の田苗代湿原のミズバショウがきれいだった。望月さん(左)と案内を務めてくれた大館市の石田明さん。

中 笠原さんは1903(明治36)年生まれで、2003(平成15)年に丁度100歳で亡くなった。『川内山とその周辺』『橅林』などの著書があり、越後の山のオーソリティとして名高かった。私は銀太郎山銀次郎山に登りにいったとき、お家に立寄って親しく教えを仰いだことがある。なにしろ村松の駅(当時は加茂・五泉間の蒲原鉄道が全線通じていた)でタクシーの運転手氏に「笠原さんのうち」というだけでちゃんと横付けしてくれたのだから大したもので、そのお屋敷は目を見張るほどの立派なものだった。

下 帰る日の奥羽本線二ツ井駅。名前も正に「駅前旅館」に2泊し、1泊お一人様2000円でこちらは計8000円の宿泊代。特急や急行に乗ったりして、標高のわりには高くつく山になった。それに、駒ヶ岳と名のつく山にしろ、登って、そう面白い山でもなかった。今だったら、いくら望月さんのお誘いだろうと、「そんなお金のかかる山なんか、あんまり行きたくないなぁ」と二の足踏むだろう。     

(2014.3)

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