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 横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠
            
 美ヶ原


先月7月の半ば、美ヶ原の茶臼山の下りで左膝を痛くした。膝のよろしくないのは、かれこれ20年も前からで、右左両方が普通ではなくなっていた。お医者の診断ではどちらも変形性膝関節症という。それでも右と較べれば左のほうがいくらかはマシで、今度は頼りのその左のほうが「いて、てっ!!」となった。10年ほど前、右膝ががくっと痛くなったときは一夏満足に歩けなかった。今回の左膝はもっと重症のようだ。

もちろんお医者にいってヒアルロン酸などの注射をし、貼り薬、飲み薬も処方してもらったが、はかばかしくはない。山などは論外で、散歩の途中でも冷や汗がでるくらいに痛み、足を引きずって帰ることが何回かあった。痛くて目が覚める夜もあり、これではどうしようもない。

今年の梅雨明けは早かったが、幸いなことに明けたとはいえ天候不順な日が多くて、これでは山もだめだと自分にいいきかせておとなしくしていることができた。しかし、1ヶ月も家にこもりっきりでは精神衛生上すこぶるよくない。本を読むのにも飽きてきた。なにを読んでも目が紙の上を滑っていくだけだし、目そのものもくしゃくしゃ腐ったようになった。家人の導火線もプスプスとくすぶり始めて恐ろしい。

と、そんな折、泉さんから安曇野の美術館で、昔の乾板時代の山の写真展があるから見にいかないかと誘いがあった。ロッジ山旅1泊で、國見さんも行くわよという。膝は痛いが、この際、いってみるかという気になった。導火線のくすぶりも消さなくてはならないし、國見さんがお出でとなれば、膝の具合を専門家に診断してもらう絶好の機会ではないか。

夏らしい日も遅ればせながらやってきた。

8月19日

泉さんとこちら2人は8時46分高尾発に乗って小淵沢着が11時5分、4分遅れで着く特急で國見さんが顔を見せた。國見さんもこのところ踵が痛いそうで、これらの身障者を長沢さんはどこへ連れていってくれるのか。

「ゴンドラで入笠山に登るのもよいが、もう、眺めのきく時間でもないでしょう。それなら車であがって、大阿原湿原を歩くのはいかがですか。あそこならほとんど高低はありませんから」と、これが長沢君の妙案だ。

車がつづら折れを繰り返すごとに車窓の風は涼しさを増し、「やはり、山はいいねぇ」。おまけに雲の隙間から、夏らしい強烈な陽も差すようになって、「これでなくてはね」。

車を湿原入口の駐車場にとめて身支度を始めると、國見さんが「これを使ってみたら。ズボンの上から着ければいいのだから」と2種類のサポーターをだしてくれた。前に國見さんが使っていたもので、どちらも右用という。見て驚いた。その1つのとりわけ物々しいほうは、これを着ければロボコップかサイボーグ、まるで機械仕掛けの膝であり脚になってしまうではないか。でも、國見さんがおっしゃるには「横山さん、右だって、よくはないのでしょう。まず、これを右に着けてごらんなさい」。

いや、すごくなったなぁ。着けてみて、もう1度、驚いた。

もう片方は右用にしろ筒状のはめるタイプなので、なんとか左にも着けられた。それにしても、こう、しっかりと固定してしまうと、自分の脚であって自分の脚ではないようだ。歩き方もぎぐしゃくと、出来の悪い機械人形みたいになった。

他人が見れば、「この人、こんなにしてまでも山を歩きたいのかしら。やめとけばいいのに」と思うだろう。自分でもそう思うが、この際、他人の目などかまってはいられない。

ストックも今回からはダブルにきめて、その首尾や如何。


       
國見さんから装具のレクチャーを受ける

湿原は秋めいた色に変り、涼風が吹きぬけていく。きてよかったと思うが、やはり足の運びに気をとられる。靴の置き方によっては、ときに「いて、いてっ!!」となった。

健常者なら1時間もかからない湿原一周を、途中昼食とコーヒータイムをとりながらだが、倍以上の時間をかけて歩いた。
 
なお、後日、國見さんが、この時の写真をメールで送ってくれたが、それにそえて「杖装具それでも歩く山患い」の名句。思わず笑ってしまった。

でも、よかった、よかった。これで1ヶ月余の間にたまっていた下界の滓が幾分かは消えたようで、ロッジの夕食もおいしく、夜の雑談もいっそう楽しかった。2人きりのわが家では、ややもすると口の中に蜘蛛の巣がはりがちだ。こうした大勢で話す機会はめったにあるものではなく、10時半近くまであれこれの話題に時を過ごした。

8月20日

8時少し前の出発。車が松本に近づくにつれ、青空が見えてきた。
 
田淵行男記念館と安曇野豊科近代美術館で目的の写真展を見終わったのが、早昼の時間。私は近くにある飯沼飛行士の記念館も見たかったが、お若い方々は「それ誰?」と、まったくの縁なき衆生だ。これでは仕方ないとやめ、「そろそろお昼だねぇ、蕎麦でも食べて帰るか」。すると長沢さんが涙のでるくらいに嬉しいことをいってくれて「コンビニでパンでも買い、これから武石峰のほうへあがってみませんか」。

そんなことをいってくれたらなぁとは思うものの口にはだしかねていたのを、なんと、なんと……、嬉しくって嬉しくって……。できることなら、トンボガエリの1つもうちたい気分になった。

いまは青一色の空の下、車はぐんぐんあがる。文字通り天にも昇る心地であった。

4年前の9月、私たちは長沢君と武石峰に登っていて、そのときは北アルプスもばっちり見える上天気だった。いま、その素晴らしい眺めが、もう一度、楽しめるなんて、至福そのものだ。うまくすれば、こちら側から王ヶ頭へも登れるかもしれないと思った。前回は西側の駐車場から往復して、武石峰だけに終わっている。今日、これから王ヶ頭までいけば美ヶ原を通して歩いたことになる。赤線を引くのも楽しみだ。

車道のどん詰まりは広い駐車場になっていて、松本からのバスの終点にもなっている。長沢君がレストハウスで貰ってきた案内図には王ヶ頭までの所要は30分とあって、当初、このくらいならと思ったが、やはり、いけません。肝心の左膝、左脚が「うん」といわなかった。

15分ほどひょたくり歩いた尾根上が本日の終点となった。眺めがよいのを好しとして昼食の場所に決めれば、皆さんも、ここまででよいという。

アンテナの林立する王ヶ頭が近く、美ヶ原の台地が右に伸びていく。北アルプスはここからはだめだが、途中の車窓からは槍ヶ岳も見えていた。あらためて「長沢さん、いいところへ連れてきてくれて、ありがとう」と礼をいった。

美ヶ原プロパー、すなわち物見石山と王ヶ頭の間の台地を最初に歩いたのは1992年7月20日。この日は扉峠‐茶臼山‐王ヶ頭‐三城牧場と歩いた。まだ、ロッジが出来る前のことで家人と2人の日帰りだった。その後は、みな長沢君と一緒で、2005年6月、07年7月、08年8月、それに今年の7月に行っているが、毎回お天気がよくなく、美ヶ原の呼び物という北アルプスの眺めは得られなかった。92年のときも晴れてはいたが、北アルプスまでは見えなかった。

2005年9月の武石峰ではよく晴れて見え、また、今回も車窓からは槍ヶ岳が見えていたが、どちらも美ヶ原プロパーからの北アルプス展望というわけにはいかないだろう。欲をいえば、北アルプスがあますところなく沖天に並ぶ秋の好日にでも、その高原台地の散策をいま一度楽しみたいものだ。しかし、それも膝しだい。


          2005年9月 武石峰にて

補記

1. 「杖装具それでも歩く山患い」の「山患い」を「山狂い」か「山気違い」にしたらといったら、國見さんは「遠慮したのよ」と答えた。 

2. 飯沼飛行士記念館は、この1週間後にいく機会があった。8月末の某日は家人の誕生日で、長沢君からお祝いをしましょうと誘いがあり、26、27日に、またロッジ山旅に出かけた。26日は入笠湿原と大泉山などを歩いたあと会食の宴にあずかり、27日は北アルプスは遠見尾根の遊歩道を周遊し、街に下りてからその記念館にいった。飯沼操縦士と塚越機関士の神風号が東京・ロンドン間を飛行したのは昭和12(1937)年4月のことで、私はわずかながら記憶がある。ブリキ細工の神風号の玩具が買ってもらえなかった記憶である。
                        (2009.8)
                                                 

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