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   横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠
 
   
ハンゼの頭
 










戸屋山へ登る泉さんと國見さん













  




























































  





柳沢の頭







 














ハンゼの頭にて





 
























昨年の、暮れも押しつまった29日、夜来の雨があがると、青空ものぞいてしだいにきれいな空になってきた。二階の部屋で夫婦差し向かいで炬燵に当たり、「そろそろ昼ご飯の支度かねぇ」といっているとき、電話があった。

「泉です。いま、戸屋山の上にいるの。ちょうど晴れてきて八ヶ岳も半分見えてきたところ。これから来ませんか。國見さん、長沢さんも一緒。あとで浜川さんも来るそうよ」。

えっ、これからロッジへ来いだって。1週間ばかり前、泉さんから「おさそい」のメールがあったときには「先月末から右膝が痛くて病院通い、せっかくだが今回はやめておきます」と、あれほどしっかりお断りしておいたではありませんか。

これをいうなら、なんとかの深情け的なのだが、「泉さんがこれからロッジへ来いといっている」と家人に話すと、なにがあろうとお山にいきたい家人は「明日どこへ行くにしろ泉さんが歩けるところなら大丈夫よ」。ぽんと、亭主の膝痛などあらばこその太鼓判を押す始末。

それに正直いえば、こちらだって「なんだ、予報では悪い悪いといっていたのも嘘っぱちか。天気はよくなってきたし、泉さんたちは今頃どこを歩いているのだろう。どうしてくれようか」と窓の外を見ながら内心穏やかではなくなってきたところである。

ええい、それならそれで、これからロッジへいってやるか。



というわけで、午後の鈍行を乗り継いで長坂着が夕方5時。長沢夫人運転の車に迎えにきてもらい、ロッジには夕食にも充分間に合う時間に着いた。しかし、道中、なにをするにもヤッコラサとイタイ、イタイの連発。家から駅までも相当ぎこちない歩き方で、やめたほうがよかったかなと半分、反省していた。

でも、ロッジに着いて皆様方のお顔を見れば、膝の痛みもどこへやら。歓談は楽しいの一言につきた。

浜川悠さんとゆっくり話をするのはずいぶん久しぶりだ。山と溪谷社にお勤めだった浜川さんとは長い付き合いで、積もる話もあろうというもの。共通の友人だった寺田政晴君の思い出話もでて、10時近くまでおしゃべりに過ごした。

そして、さぁ寝ようかというとき、長沢君が「ところで明日はどこへいきますか」。

なに、そんなことはみんな長沢さんにお任せだ。しいて聞くなら泉さんと膝に聞いてくださいな。

翌朝、雲は多いが青空もいくらかはあってという空模様。「今日はどこへ行くことにしたの」と問えば、「柳沢峠からハンゼの頭はどうですか。標高差は200メートルくらいなものですから」。なるほど、長沢君の見繕いはいつもドンピシャリ、こちらの考えも及ばない的確、かつ素晴らしい山に連れて行ってくださる。何事も長沢君に任せておけば間違いないのが、いつものことだ。

 

とはいえ、裂石、すなわち大菩薩登山口を過ぎて車が羊腸の道をあがるにつれ、いくらかは見えていた青空は消えうせ、寒々しく、いつ雪が降りだしてもおかしくない空になってきた。

柳沢峠を歩き出したのが10時少し過ぎ。車道から登山道に入る頃から小雪が舞うようになって、風も強い。片足を引きずるようにして歩くのだから速度はでず、なかなか体が暖まらずにいっそう寒さが身にしみた。

こんな日は膝がよけい悲鳴をあげる。ロッジご主人の見繕いも今日は大はずれのようだ。「長沢さん、方角を間違えたのではないか。甲府の南のほうは、こんなに悪くなりそうもなかったよ」といったところで、もう、遅い。家人と「寒いねぇ」とぼやきながらついていくほかはなかった。

それにしても、身障者2人のほか、國見、浜川などのウルサガタを引き連れて、長沢さんも大変だねぇ。



この辺り、私が最初に歩いたのは半世紀ほど前になる。1958年9月、まだ一緒にはなっていなかったが、家人とともに柳沢峠から笠取小屋へいったのがそもそもの始まりだ。その後は笠取小屋まで歩き通したのが3回、あとは途中の倉掛山への登路として3,4回は歩いていると思う。望月達夫さん、大森久雄さんと同道したのは79年4月、館山盛、寺田政晴両君と歩いたのは 94年の6月だった。

館山は私の高校からの山友達で、寺田君は「館山さんはいい人だ、いい人だ」と繰り返しいっていた。いまは、その館山と会うたびに「寺田君はなんだってあんなに早く死んでしまったのだろうね」と悔しがるしかないとは、なんとも寂しいかぎりだ。今回、あらためて  「1994.6 倉掛山」とラベルの貼ってあるケースのスライドを見ていくと、初夏の緑深いハンゼの頭辺りを歩く寺田君を写した駒もあり「なぜ、あんなに早く」の思いを強くした。



なんとも寒々しいなか、長沢君に「ここが柳沢の頭です」といわれたのが図上で1671.2m三角点の、山というよりコブみたいな上。さえない所だ。

近年、柳沢峠から私の与り知らぬ遊歩道が作られ、昔の一本道とはわけが違う。眺めがきけば方向の見当もつくだろうが、こんな雪雲のなかでは、どこがどこやらである。「前はこんなところあったかしら」と家人と例によって例のごとく顔を見合わせるばかりだった。

それはそれとして昼食によい場所が近くにあるだろうか。そろそろお腹がへってきたが、雪の地べたにすわってなどとはご免こうむる。

なるほど、長沢君のいうとおりにそこから僅か下った鞍部にはお休み小屋があったが、壁も満足になく寒風が容赦なく吹き抜けている。しかし、ここしかないといわれれば、そうかと従うだけ。

それでもコンビニのサンドイッチを水っ洟をすすりながら食べているうちに、「これはこれで楽しいではないか」という気分になってきた。周りを見れば、御世辞にも若いとはいえない諸兄姉もまんざらではなさそうに、もぐもぐやっている。どうであろうと、お山にいさえすればご機嫌なのだから、単純といえば単純だ。それに、この寒いのにビールだと。

 

こんな日は食後の談笑もできず、そそくさの出発になった。

ここの鞍部で道は3方向に分れ、左が鈴庫山、まっすぐに登るのがハンゼの頭、右は笠取林道へ通じている。こんな天気だから今日はここで終わりにして笠取林道へおりるのかと思ったら、長沢君の初志貫徹の一言で、どうしたってハンゼの頭に登らざるを得なくなった。

ところが、なんとしたことか。その時、一天俄かに掻き晴れて、頭上に青空が見えてきたではないか。欣喜雀躍、木段を登りながら振り返ると、まず大菩薩嶺が、次には鶏冠山が姿を現してきた。

うんうんとうなずくうちに、圧巻は奥秩父の飛龍山。フェードイン、フェードアウトを繰り返しつつ、すっと大きな山容をはっきりさせた瞬間には、皆、歓声をあげた。なんとも素晴らしい山々の登場であった。

「いいねぇ」の一言しかなく、至福のひとときであった。ハンゼの頭、いいところだ。

それにしても「泉さん、誘ってくれてありがとう。長沢さん、いいところへ連れてきてくれてありがとう」とは、我ながら現金なものだと思った。



結局、この日はハンゼの頭を越してから笠取林道を柳沢峠へ戻る一巡コースを歩いた。休みを除いて超スローペースの実質3時間ほどの歩きか。

あとは塩山駅まで長沢君に送ってもらい、身延線回りで伊東まで帰る浜川さんは3時28分の下り甲府行きに乗り、泉、國見、横山夫妻は上り3時52分の立川行きに乗った。



追 記

1.これで膝の具合がいっそう悪くなった。昨年の初め、やはり長沢君主導の高川山で嫌というほど歩いて膝を痛めて病院通いをしたが、また、同じ羽目になった。いまも通院中でお医者頼み神頼みの日々を送っている。

2.長沢君も不思議がっていたが、ハンゼの頭とは、どこからきた名だろうか。ひとつ手前の1671.2m峰を柳沢の頭というのは原全教さんの本(『奥秩父研究』朋文堂/昭和34)にもそうあって納得するが、ハンゼの頭のほうは近くにハンゼと名のつく沢もないし、そもそもハンゼとは何のことだろうか。また、原さんは倉掛山から柳沢峠へかけてのこの尾根をハチワリ尾根というとしているが(『多摩・秩父・大菩薩』朋文堂/昭和16)、ハチワリなんてあまりよい名ではないと思う。もっと、よい名があってしかるべきだと思うのだが。

3.寺田君がいい人だといっていた館山にいわせると「お前(すなわち、この一文の筆者のこと)と比べるから、俺はますますいい人になるんだ」そうだ。

4.晴れていれば柳沢峠からハンゼの頭に行く途中からの眺めは素晴らしい。1989年11月3日に笠取小屋まで歩いたときの写真を何枚かお目にかけるが、この日はまことの秋晴れで山々の眺めはいうことなしであった。
                 
                  (2008.1)













八ヶ岳が半分姿を現した



























































登るにつれ、雪が降り出した









両側の4枚は横山氏撮影による、
1989年のもの(追記4参照)























寒風吹き抜けるあづまやで
昼食とした










大菩薩嶺



飛龍山

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