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   横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠  
   
釈迦ヶ岳再訪
 























 







































 













大森氏と望月氏




ナンジャモンジャの木




釈迦ヶ岳









つい先だっての11月21日に登って、これで釈迦ヶ岳は2度目になるが、この前、望月達夫さんや大森久雄さんと登ったのは、いつだったかしら。おそらく、もうだいぶ前の昭和50年代の前半ではなかったろうか。

このときの山行は『静かなる山』に書いているから、その発行の年より前の山行であることは確かだ。おそらく半年かそこら前の山行だったに違いないと、まず『静かなる山』の奥付を見た。こうして当たりをつければ、山の記録帳を1ページ1ページ見ていくよりもずっと早い。



『静かなる山』は茗溪堂、昭和53(1978)年7月の出版で定価は1700円。著者は年の順に川崎精雄、望月達夫、山田哲郎、中西章の皆様方が並んだ末席に横山の5人。

この本は望月さんが「まえがき」に書いているように私が言いだしっぺだった。ちょうど、その頃、晩秋から早春にかけて、私達は中央沿線のあまり知られていない山を毎週のように歩いていた。今になると中高年登山者の定番のような高川山も、当時は車窓から見て「あんな山、ちゃんとした道があるのかねぇ」といった程度だった。そこで、ある日、例によって例のごとくに超無名山で藪を漕ぎながら思いついたのが、こうした山歩きの幾つかを1冊の本にまとめてみたらどうだろうかということで、まず川崎、望月の御二方にお伺いをたてると「ああ、それは面白いだろうね」のご返事を得た。

そして、望月さんが「ぼくが茗溪堂の坂本君に話してみよう、君が編集をやればよい」とおっしゃれば、あとはとんとん拍子に物事は進んでいった。

各自が書いてみたい山を持ち寄り、ああだこうだの末に決まったのが97の山。なお、後日、あえて流行りの100山にしなかったのは奥ゆかしいとある人からお褒めをいただいたが、なに、あれは台数割りの関係で、そうなったまでの話。あと3山増やすと中途半端の6ページ増になって割高になるのを嫌ったからである。とかく高いと評判の茗溪堂の本だが、「この本に限っては少しでも安く作りたい」というのが著者そろっての希望だった。 

1山見開き2ページ、タイトル4行取りを別にして50字42行の2100字にすると、どのくらいのことが書けるだろうか。そこで「まず、僕がサンプル原稿を書いてみますから」といって書いたのが、前の年の12月に登って、まだ記憶に新しい釈迦ヶ岳だった。

「なるほど、このくらいの字数があれば、なんとか書けるよ」と川崎さん、望月さんがおしゃれば、これで決まり。

装丁はカバーや扉のカット、それに口絵の1枚を含めて、これも山仲間の1人、藤井実画伯にお願いした。さらに各自が写した8枚8ページの口絵写真を付けた。

初版は3000部。私がいうのもなんだが、当時、こうした内容の本は珍しくて、なかなかの評判だった。よく売れて、茗溪堂の本にしては珍しく重版するまでになったし、2年後には続編も作られた。昭和55年11月出版の『続静かなる山』である。

なお、仄聞するところによると、ある大きなハイキング倶楽部のお偉方が「先を越された」といって悔しがり、「わが倶楽部でつくれば、もっと充実したものが出来たのに」といったそうだ。それを聞いた川崎さんか望月さんが「なにをいっているんだい、書く人間の格が違うよ」といったか、いわなかったか。

それに、もう一つ、この本を深田さんの日本百名山同様にして、97の山すべてに登ろうと意気込む人がいるとも聞いたが、それも私達の間では「山は自分で見つけて登るものだよ、何も他人の後を追っかけるような山登りをしなくともよいではないか。よせばよいのに」と評価は最低だった。



ここで本題の釈迦ヶ岳に話を戻すと、昭和53年7月という『静かなる山』の発行年を手がかりにして、前回の釈迦ヶ岳登山の年月日はすぐに判った。

その前年、昭和52年12月11日の山行だった。なんと30年も前のことかと、私はしばし感慨にふけった。同行は望月達夫さんと大森久雄さん、それに私達夫婦の4人で、30年前とすると望月さんは63歳、大森さんと私は同年の44歳、家人の歳はいわぬが花にしても、皆さん、お若いものだった。当時は望月さんをずいぶん年上のように見ていたが、なんだ、いまの私よりもずっと若かったのかと、今一度、感慨にふけった。皆、元気でよく歩いたのも不思議はない。

1泊2日の山歩きだった。

初日は石和からタクシーで大窪の集落まで入った後、鴬宿峠へあがったのだが、この道が判りにくく沢から急斜面を闇雲に登ったのを覚えている。しかし、いったん尾根へ乗ってしまえば道筋は明瞭で、峠ではナンジャモンジャの大木に目を見張った。

東に尾根を伝い黒坂峠、春日山、鳥屋八山をへて鳥坂峠からは旧道を芦川の谷におりた。その頃は宿の予約もせずに、行き当たりばったりの飛び込みが普通だった。ところがこうした旅館があると聞いていた「えびす屋」さんがなにやらの取り込みで駄目、代わりに親戚筋という民宿芦川荘を紹介されて、これが大当たりだった。  

民宿の芦川荘は家並みがつきようとする集落の上の端にあって、不意の客にもかかわらず、私たちを暖かく迎えてくれた。そして、炬燵を囲むへだてのない団欒の中心は、毛糸の正ちゃん帽をかぶった愛嬌のあるおばあさんだった。私たちが、石和から鴬宿峠を振出しに尾根伝いにやってきたとつげると、「殺生人しか通らない山をよく越してきたもんだ」とほめてくれた。

と、これが『静かなる山』掲載の「釈迦ヶ岳」の1節になるが、いまも、あのおばあさんのことは忘れられない。その後10年ほどして私はもう一度芦川荘に泊まっているが、その時には、もう、おばあさんは亡くなっていていた。

このときの釈迦ヶ岳初登山は、両日ともよいお天気に恵まれた。二日目は8時半に宿を出て、釈迦ヶ岳、府駒山、黒岳、御坂峠とたどったあと三ツ峠登山口のバス停へおりた。

山の記録帳を見るとバス停には3時10分についたとあるから、なかなかのハイペースで歩いたことになる。今の私では、とてもこのような速度では歩けなし、途中で「もう、いい」という気になってくることは間違いないだろう。今回は黒岳と釈迦ヶ岳の間の車道の乗っ越すドンベエ峠(日向坂峠とも)からの往復であり、合わせて2時間半くらいの所要だったが「明日、さらに大菩薩へ登るとすれば、今日はこの程度がちょうどいい」という気分であった。



さて、再訪の釈迦ヶ岳は無風快晴でいうことなしの登山日和。案内役の長沢さんには、同行の五十嵐さんともども「よい山によい日につれてきてもらった」と感謝のほかはない。見えるべくして見える山はみな見えて、さらに富士山の右裾野、大室山との間で逆光にひかるのは海ではないかと長沢さんが双眼鏡で確かめると、まさしく海であり船までが見えた。後日、20万図であたると、駿河湾のちょうど富士川の河口辺りの海と知った。船はタンカーのような大型船に違いない。

前回は板切れ1枚だった山頂の標識も「山梨百名山」のそれに変り、展望の山々を教えてくれる立派な表示盤までが作られている。おまけに2体の石仏にちゃんちゃんこまがいの着物まで着せてあったのを余計なことと思いながら、それでも私は釈迦ヶ岳山頂のひと時を存分に楽しんだ。家人と顔を見合わせて「今日はいい日だねぇ、こられてよかったねぇ。これだから山はやめられないねぇ、また、きたいねぇ」。

 (2007.12)























『静かなる山』執筆当時の著者
上から、川崎、望月、山田、中西、横山
の各氏



























上芦川の集落



釈迦ヶ岳山頂

白黒写真は1977年12月
横山氏撮影






カラー写真は2007年11月
長沢撮影

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