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          鬼ヶ岳 2006.12.7



30年近く前に山歩きを再開したころ、もっとも足しげく通ったのが、大石峠から西のいわゆる奥御坂の山々だった。そのころ御坂の山中の茶店で仕事をしていた私だったが、同じ山塊でも、仕事場のあった河口湖東部北岸に連なる山々と、奥河口湖から西湖の北岸にかけて連なる山々とでは、湖の雰囲気が変わるのにも似て、山にも明らかに違う香りがあるように思った。そんなことが新鮮で、せっせと休日を費やしたものだ。今でもその印象は変わらない。

そんな中で鬼ヶ岳は、縦走の途中に通過するのみのことが多く、ちょっと印象が薄まるところがあるのを少々気の毒に思っていた。深田久弥はこの山を「鬼の角のような岩柱があるだけの、あまり品のない頂上だが、見晴らしはよかった」と、山をあまり悪く言わない深田にしては珍しく、そっけなく、はしょったような印象しか書いていない。

ちょうどその文章を読んだのが、私がこのあたりの山に執心しているころだったから、鬼ヶ岳のためにおおいに憤慨したものだが、身内身びいきではなく、鬼ヶ岳は風格のある山だと思う。登山口の根場(ねんば)から見えるのは手前の雪頭ヶ岳だが、これも鬼ヶ岳の一部と考えたほうがいいから、なかなかどうして堂々たる山姿である。十二ヶ岳からながめた険しい山容もいい。だから、ガイドブックを担当したとき、鬼ヶ岳のために一肌脱いで独立したページをつくったのだった。

かつては少々怪しいところもあった根場から雪頭ヶ岳へ直接登る道も今では何ら問題なく歩けるようになって、一日の山歩きに鬼ヶ岳はぴったりの山となった。西湖畔の駐車場を起点にきれいに周遊できるのだから車登山には最適で、頂上付近のブナやミズナラの樹林の良さ、富士はもちろんのこと、甲府盆地を巡る山々の大観、鍵掛峠の径の素晴らしさなど、山歩きの楽しみがちりばめられている。

この日はその楽しみをすべて楽しんだ。その上、富士に笠雲が出て、一日中その変化を楽しむことができたのは望外のおまけと言ってよかった。この笠雲はその日の地方ニュースでも取り上げられていた。

前述の深田久弥の文は、昭和37年から38年にかけての年末年始の山歩きを描いたもので、深田一行は我々と同様、鍵掛峠から根場に降りて、民家のひとつに宿を頼んでいる。

<年数を経た柱も梁もガッチリと太く、これが「家」というものである。これに比べて、都会のわれわれの住みかは、単なる人間の容器にすぎない>とその模様が書かれている。

その3年後、この根場の「家」のことごとくが山津波にのまれて倒壊し、100人近くの死者を出したのである。

当時の家並を復元した「西湖いやしの里根場」なるものがこの年の春オープンして、山麓の景色を変えていた。人の住まない店舗としての茅葺家屋には何の生活の匂いもない。新しいからなおさらで、これがあと50年くらいたてばそれなりの風格が出るだろう。

それにしても「癒し」だの「ふれあい」だのという気味の悪い言葉をどうして使うのだろう。

「ふれあう」という言葉は「繁華街で肩が触れ合った」というような使い方をしているだけならよかったのに、いつごろからは知らないが「心が触れ合う」といった使い方をするようになって品がなくなった。「ふれあい」という名詞は後者の意味を言うのだろうから言語道断だし、「疲れを癒してくれた」と動詞で書けば目障りではない言葉がこれも「癒し」と変な名詞にされたとたんに「卑し」くなる。

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