原全教について



2011年7月、ロッジ山旅の掲示板に高埜功さんという方の投稿があった。高埜さんは、奥秩父やその周辺の山々を語るときに欠かせない文献『奥秩父』(朋文堂)やそれに類する数々の本の著者として知られる原全教氏の甥にあたる人だという。

私は『山の本』に連載している「山書探訪」の第1回目〈大峠と観音峠〉で原全教の前述の本を取り上げた。それを自分のサイトにも載せたので、インターネットの検索で引っかかったのだろう。

その後も何度も掲示板にご投稿いただき、またそれに呼応した小林雅史氏からの投稿もあった。高埜氏には私のところに古い写真のコピーまで送っていただいた。それらをまとめようと思いつつ、つい後回しにしていたのを、このたびやっと形にした。

なお、ためしにインターネットで「原全教」を検索すると、最初に「ウィキペディア」が出てきて、へえ、原全教まで出ているのかと感心したものだったが、その内容を読むと、高埜さんが投稿してくださった内容に酷似している部分が多い。それもそのはず、執筆者は高埜氏から情報をもらっていたことがその後わかった。

実はまだまだ原全教については、出家のことひとつをとっても謎が多いように思う。このサイトに目を留めた方から新たな情報が得られればと願っている。

以下の文章ではご投稿いただいた高埜さんと小林さんの文章を原文の意味を損なわないように書き換えた部分があることをお断りします。

                                2012.10 長沢洋
                                    
   
私は神戸生まれ山形育ち、東京に居住してはや50年の高埜功(たかのいさお)と申します。現在70歳でございます。今回投稿しましたのは、原全教の記事を「ロッジ山旅」サイトで偶然見つけまして、これからも語り継がれたらありがたいなとの思いからでした。

原全教(1900年5月18日〜1980年11月)は私の伯父さんで、私は「山の伯父さん」と呼んでいました。石川県金沢市川除町23に「士族」坂部家の二男として生まれました。8人兄弟姉妹で上の2人が男であとの6人は女性です。本名を坂部武二といいます。私の母は5番目で伊津子です。母は既に亡くなりましたが、今年初めに末の妹の八重子叔母さんも亡くなり、今私が少しでも伯父さんのことをお話しておかなければとの思いでおります。なぜ坂部武二が原全教になったのかを少しお話したいと思います。



私が5歳の時に疎開先の山形で終戦になりました。戦後の混乱期には母の兄弟姉妹との交流はほとんどありませんでした。ですから全教伯父さんと私が会うようになったのは、私の兄が伯父さんを頼って上京した昭和30年ごろからだったと思います。その頃伯父さんは東京の目黒区でガリ版印刷の自営業をしていました。屋号は「謄友社」といいました。現在は、その仕事を引き継いだ私の兄から甥の代となり、大田区で株式会社「謄友社」として営業しています。

遅くなりましたが坂部武二から原全教に変わったのは目黒区のお寺に出家してからだと聞いています。

昭和30年頃、伯父はガリ版印刷を私の兄に任せ、「新宿バーテンダースクール」の講師を経て、目黒区自由が丘に「アイガー」というトリスバーを開店しました。私はまだ山形在住でしたのでその頃のことは詳しくは知りませんが、その後、渋谷区恵比寿駅前で焼き鳥バー「すず」という店を伯父が始めてからは、私も上京後だったので、たまに飲みに行きました。

伯父さんはそこを経営しているうちに亡くなったのですが、店は一人息子の原信彦が引き継ぎ、駅前整理事業で立ち退くまで続けていました。信彦も山が好きなようで3年ほどひとりでネパールで生活していたとそうです。信彦は現在赤城山麓に夫婦ふたりで住んでいます。

この文章を受けて、私(長沢)は、かつて偶然見つけた『山と高原』昭和34年4月号に掲載された、原氏の経営していたトリスバーの広告の写真を掲示板に載せた。

貴重な写真をありがとうございました。初めて拝見しました。この広告で「全教」の下に「ひさ」とありますのは原夫人つまり私の義理の伯母の名前です。この広告の所在地が五反田になっておりますが、たぶん自由が丘の前のお店だと思います。昭和34年4月と言えば私が大田区蒲田のテレビ学校(現在は日本工学院)に入学するため上京した時でした。

原全教にもどりますが、この名前でインターネット検索した時に、ある方が原全教はサラリーマン登山家だったと書いてありましたので、その時代を知らなかった私は驚いて、先日息子の信彦に電話で確かめました。伯父さんはかつて大蔵省の役人(註)で、当時土曜日は半ドンでしたので、土曜日の午後から日曜日にかけて山歩きをしていたそうです。



明治時代は子沢山でした。伯父の兄弟は、上から坂部親忠、武二(原全教)、光子、房子、伊津子(私の母)、富子、徳子、八重子。8人もの兄弟姉妹があったのですが、戦争の影響や女性が多かったため離散し、私はふたりの伯父さんと八重子叔母さんしか知りません。
長男の親忠(ちかただ)伯父さんは欧州航路の船医さんで「お船の伯父ちゃん」と呼んでいました。確か日本郵船勤務で、神戸に立ち寄った時は、台湾の真っ黒い乾燥バナナをよくもらいました。のちに陸に上がってからは群馬県の下仁田で「亀の子や」という駄菓子屋を始め、看板には本物の大きな大きな海亀の甲羅を掲げていました。さすが船乗りだと思ったものです。 

ここで掲示板に小林雅史さんという方から新たな情報が入った。「坂部親忠」という名前が検索でヒットしたのである。高埜氏が私のサイトで原全教を発見したのもそうだったが、まさしくインターネット時代ならではである(長沢)。

 《突然失礼いたします。小林雅史と申します。私の父方の祖母は「のぶ」と申しまして旧姓は萩原です。荻原寅吉の三女ですが、その長女、つまり祖母の姉が「よし」で、坂部親忠氏に嫁いでおります。

坂部親忠氏の弟さんが高名な登山家であるということは貴ホームページで初めて知りました。

我が家にはその坂部親忠氏からいただいたというSPレコードが何枚かあり、私も幼少のころから聞いておりましたので昭和36年生まれにもかかわらず軍歌が大好きになりました。

先日軍歌のCDを買ったとき、お会いしたことはありませんが、私を軍歌好きにさせたレコードをくださった聞く「日本郵船のおじさん」のことを思い出し、父に詳しく聞きましたところ坂部親忠という名前とわかったのでした。

以前先祖を調べたときに手に入れた古い戸籍に、曽祖父荻原寅吉の長女よしが石川県鳳至郡輪島出身の坂部親忠氏に嫁いだことが記載されておりました。

その後、実家で坂部親忠氏のことを聞いてきました。大伯母の萩原よし(神戸で働いていたと聞きました)は娘ふたりの子連れで坂部親忠氏に嫁いだそうです。そのせいで坂部家から大分反対があったようですが、親忠氏はよしの連れ子を大変かわいがってくれたそうです。

私の父は男の子のいないこの伯母夫婦に「マス」と呼ばれてかわいがられ、戦前戦後に「マスにあげる」とSPレコードなどを頂戴したようです。

私の母は戦後父と結婚する前に富岡の信用金庫に勤めていて、富岡市内の駄菓子屋の卸問屋であった坂部親忠氏が愛犬を連れて預金をしにきていたのを覚えているそうです。父との結婚後は親戚としてお付き合いがあったそうです。父母は、坂部親忠氏の駄菓子屋の卸問屋は(戦前戦後を通じて)富岡市内にあったと申しておりました。》

以上の小林氏の文章に高埜氏がまた続きを書いてくださった。

久しぶりに山旅さんの掲示板を拝見させていただいたところ、小林雅史さんの記事に坂部親忠の名を見つけ再度投稿させていただきます。

親忠伯父さんの奥様には遊びに行ってお世話になり、いつも「やきもち」を作ってもらい、「やきもちのおばちゃん」と呼んでいました。下仁田の名物だったのでしょうか? ですから「よし」という名を知りませんでした。

そしてその息子さんは名犬を育てるのが得意で、群馬県の大会では何度も優勝していました。この親忠伯父さんや原全教伯父さんの父は坂部練一郎、母は原信(はらのぶ)といいます。それで全教さんが出家した時に原を姓にしたのだと思います。また原全教の息子は信彦、八重子の息子は信行と、お祖母さんの「信」をつけています。

原全教の一人息子の原信彦は1985年、群馬県勢多郡赤城山に鉄工所に勤めていた経験や雑学を生かしてドーム型の家を自作しました。水は雨水も利用、電力は風力発電、トイレは主に自然沈下型というか自然吸収型でした。

当時は数匹の猫と住んでいましたが、その後結婚してからは訪ねておりませんので、現在の住まいは判りませんが、数年前、私の兄の不幸の際、駆けつけてくれましたが、かなり体調が悪いようでした。 

このこともあり 私も若くありませんので山旅さんの掲示板を使用させていただき、私の知る原全教について書きました。これにて終了といたしますが、山旅さんはじめお読みいただきました方々には、全教に関し少しでも追加してご記憶いただければ幸いと存じます。



(註)原氏が「大蔵省の役人」とは
高埜氏の勘違いと思われ(2021年6月、この部分について富永氏から訂正してほしい旨の連絡があった。氏が仲間内の会報中のコラムで原全教氏について書くに当たり、改めて調べ直すと、大蔵省に大正11年末か12年初めあたりから、数年程度の間勤めていた事実があったという)、原氏は東京市に勤務され山岳部で活躍されていました。もっとも氏の行動パターンからして単独行が多かったですが。その様子は「東京市山岳部年報」で窺い知れます。第1号(三康図書館蔵)で発表された「秩父の冬旅」は39ページに及ぶ長文で、中津川神流川広河原谷の炭焼集落での宿を借りた心情の描写に、山と自然を愛する原氏らしさが感じられます。
    (2015.11.12 富永氏によるロッジ山旅掲示板への投稿による)
  
     以下、上記富永氏による補遺 2015.11.26

私は秩父の古林道をよく歩くので、約80年前の原氏の著作をガイドとして使用し、余りの信頼性の高さから著者本人に興味を持つに至った者です。大洞林道本線、雪久保林道など、今だに原氏以外の詳細な解説を見ませんし、かつて人気コースだった滝川林道(今は廃道)も、原氏の解説が一番詳細で正確です。

原氏のお人柄を理解する参考になればと、幾つかの個性的なエピソードをご紹介させていただきます。私は、どの話もとても氏らしいと共感を持ちました。

●東京市山岳部の稲葉充部長が昭和10年に富士山で遭難死したとき、一合目の小屋で遺体が降りてくるまで読経していた。 1)

●春日俊吉が「新ハイキング誌」の誌上座談会で、原氏をからかったり、茶化したりしていた。 2)
(春日)「余り詳しすぎるから反感を持つんだ」(笑)
(春日)「原さんの歩き方はまた変わっているからなあ。」

●雲水(修行僧)時代、夜中に雲水姿で近所の山を歩きまわっていた。2)

●山に入るのは逃避であり、禅の観点では邪道になるため良心の呵責に耐えず、しかし他のレクリエーションよりはましだろうと内面闘争をしながら歩いていた。2)

●山行の核心部の手前まで徹夜で歩いておくことを、涼しく登れ、時間効率がよいと推奨し、実例を何コースも紹介。以下はその一例。3)

 前日22:30飯田町発の列車に乗り、当日2:30日下部(山梨市)駅から歩き出し、雪道を登って23:00国師小屋着。
 翌朝5:00出発で山を下り、深夜0:30塩山を通り、日下部駅に戻るが、刑事に捕まり尋問の末釈放、日下部2:00の列車で帰京しワラジのまま出勤。

●健脚ぶりは武州雲取小屋での山上座談会のときも発揮された。4)

 原氏は座談会当日、仁田小屋尾根を登り、和名倉、仙波ノタル、将監峠と回って雲取に着いて夜の座談会に参加、皆が翌朝朝五時に起きると既に出発した原氏の姿がなく、皆剛健ぶりに驚く。

●山行スタイルも徹底的に無駄を省き、汽車賃だけあればよいという。 2)

(春日)「泊まるのはお寺かなんか?」
(原)「いや泊まらないのです。寝ないで歩くんです。」

●勤務先の同僚が原氏をどう見ていたか。 3)

(同僚)「君のように行ったら、行き先がなくなるだろう」
(原)[本州だけでも尾根や谷を歩きつくすのに30年かかる」

●生涯を方向づけた心に残る書物。 5)

 「武侠世界」臨時増刊の「山河跋渉号」を店頭で見てとても読みたかったが修行僧の自分にどうしても買えず、すると心情をさっして気心の知れた檀家総代の子息が渡してくれた御布施の包みから出てきた。それを隅から隅まで貪りつくした。さらに、毎日そのことばかり思い続けていた「日本アルプスと秩父巡礼」(田部重治)も好意で入手してくれた。これらは戦火で消失するも買い直した。

●「東京市山岳部年報」にこんな記述があります。雑然とした都会を疎み、田舎の山と人とを愛する心情が非常に良く分かります。炭焼集落に宿を借りた時の記述です。私もこの記述に凄く共感しています。 6)

 「彷徨者の心持を解し得ざる兎角の批評に、自分は思わず頬がほてった。ヂリヂリと瞼が熱くなるのをどうする事も出来なかった。(中略)不景気、失業などの声喧しい折柄、これと云う的もなく雪中をさまよって歩く自分の、余りに不可解な無価値不生産的な存在だと云われても、一言の弁解もなかった。(中略)その中にただ一人猟をやると云う自分と同年位の人のみは、果してよく自分の気持を理解して呉れた。曰く。猟師は商売根性で出来るものではない。獲物があってもなくても、鉄砲担いで一廻りしてくれば気が済むのだと。その数言こそ自分の気持を裏書して余蘊ないものであった。」

●大洞谷の名物爺さんであった狩猟生活者の菅沼義助は無口、人嫌いで知られていたが、惣小屋で原と同宿した際、山のこと、森のこと、漁のことを雄弁に語ってくれた。この爺さんを大抵の登山者は山中の奇人・変人のように見ていたが、山人とのふれ合いを大きな喜びとする原氏は、大きな儲物と思っていた。 4)

1) 『都庁山岳部報』 No.175、「第一期 創立から終戦まで」p.7-14、昭和56年

2) 『新ハイキング』45号、「山あるき・今と昔」 p..26-33、昭和32年

3) 『三田文学』10巻8号、「夏山の漫想」 p.170-173、昭和10年

4) 『山小屋』22号、「山小屋座談会」 p.572-579、
  「秩父の山人を語る(一)」 p.676-678、昭和8年

5) 『岳人』316号、「心に残る一冊の本 日本アルプスと秩父巡礼」
   p.162、昭和48年

6) 『東京市山岳部年報』1号、「秩父の冬旅」 p.28-66、昭和8年



全て発言を取り上げるスペースはありませんので割愛しましたが、言葉のひとつひとつに熟慮と信念とが感じられました。このような深い内面は、生得のものに禅修行でさらに磨きがかかり生まれたのでしょう。

しかしその一方で、従軍したり、印刷業や酒場経営を行うなどの現実的な面もしっかり持っており、なぜそれらが両立するのか不思議でなりません。私の方もまたこの場で、勉強させていただければありがたいです。

文献の方、最近デジタル化が進んで格段に読みやすくなっています。ご承知かもしれないですが、国会図書館へ行かずともこれらの図書館で多くの古典文献や雑誌が読めるようになっているそうです。参考文献に挙げたものも、大部分があるはずです。

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