大雨の八千穂高原 (松原湖

確実な大雨の予報に、ふだんなら即刻中止の木曜山行だったが、名古屋のやまんばさんをはじめ、神戸、東京と遠路のお客さんがそのために前泊していて、雨がどうしたと行く気満々で、そのうえ、地元から初参加のMさんまでが行きますとあっては中止するわけにはいかない。

とはいえ、山登りというわけにもいかない。というので困ったときの八千穂高原へ出かけることにした。選んだのは八千穂レーク大回りコースである。白樺をはじめ、終始美しい林の中を歩くのは、雨の中でも風情があった。晴れていたって、それほど歩く人はいないのだから、大雨とあっては人っ子一人いない。

こんな日でもルンルンと歩けるなら楽しみは無限大ですな。雨もまた良し。物事はいい方に考えるべきである。皆さん、お年を召してもお元気なはずだと納得させられた。

冷山 黒耀石彷徨 (蓼科)

下界が猛暑日になるというので、これはなるたけ高いところに出かけねばと頭を絞った。そうなればだいたいが中信高原へとなるのだが、思いつくところにはたいてい出かけているから、何か目新しい案はないものかと頭を絞るのである。

今年は和田峠付近にやたらと出かけていて、つい先日には和田峠山から星糞峠を眺めた。つまり黒耀石と因縁が深い。となると思い出されるのは冷山である。

過去2回、冷山には出かけている(2018.8)、(2019.9)。

最初のときには、この山中にあるという黒耀石の露頭をあわよくば拝んでという希望もあったのだが、この広い山中にあてずっぽうでは見つかるはずもなかった。2度目には、冷山の、登る途中の森と、ほとんど土を踏むことがないくらいの苔に覆われた地面が気に入って、もう一度行くことにしたのだった。なにせ避暑にはぴったりの標高と名前である。

その後に読んだのが、『八ヶ岳の三万年 ー黒曜石を追ってー 』(小泉袈裟勝著・法政大学出版局)という、1987年に出版された本であった。これは15年あまりに及ぶ、麦草峠近辺や冷山での黒耀石探査行の記録である。1978年、冷山の露頭を発見するまで、なんと4年もの歳月がかかっているのである。これではあてずっぽうで行き当たるはずもない。

しかし、これら先人の記録から、おおよその位置はわかる。そこで今一度、こんどは頂上を目指さず、森を彷徨して、あわよくば露頭に出合えればと、計画を練った。小泉さんの本の略図には、逆川第一歩道や第二歩道なる道が記載されているが、当時でもすでに廃道に近かったという。それから50年近くたっている今では痕跡を探すのもむずかしいだろう。ままよ、現地に行ってから仔細は決めることにする。

犬も歩けば棒に当たる。運がよかった。苔に覆われた森をさまよううち、その露頭に出くわしたのである。大露頭そのものは黒耀石という感じはしないが、地面に破片が転がってギラギラと光っている。実のところ、この露頭あたりの黒耀石は実用としては質が低く、質の高いのは、ここより上部にあるが、これはおいそれとは見つからないと本にある。

インターネットには少数ながら記録もあるので、人の訪れも間々あることだろう。行きがけは適当に歩いたのでマーキングの類はほぼ見なかった。帰りがけには、露頭から続くマーキングのとおり歩いてみたが、それも途中で見失ってしまった。

ま、この黒耀石露頭は見ものといえばそうだが、そこに至る森がよかった。苔に覆われた暗い森の中にぽっかりとオアシスのような草原もあって、レンゲツツジがわずかに残っていた。こんな空間もおそらくは人の手が加わった名残ではあろうが、夏の暑いときに散歩にきて昼寝でもすれば最高であろう。もっとも、そんな変人は少なかろうが。

横谷峡の上部にある大瀧神社のご神体や、尖石考古館の玄関前にあるのは、この冷山から切り出した黒耀石だというので、帰りがけにはそれらも見学して、実におもしろい半日の山遊びを終えた。
星ヶ塔(霧ヶ峰)

「星ヶ塔」という印象的な名前は、手塚宗求さんが監修していた昭文社の地図にあったので知っていた。国土地理院の地形図には記載はない。昭文社の地図は縮尺が大きいので、だいたいの位置しかわからないが、地形図と照らし合わせると、この突起をそう呼ぶのだろうなとわかる。

下諏訪町の説明は以下である。

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星ヶ塔遺跡を発見した鳥居龍蔵によれば、星ヶ塔はもともと「ホシノトウゲ」と呼ばれていたようです。星ヶ塔遺跡の東側は、鷲ヶ峰の山裾と星ヶ塔山の間のへこんだ部分であり、山道の峠になっています。この峠に「ホシ」があることからホシノトウゲと呼ばれていたのですが、昔の人々は黒曜石のことを夜空に輝く星のかけらと考え「ホシクソ」と呼んでおり、そのホシクソが峠道にたくさんあることから「ホシノトウゲ」という地名がつけられました。のちにそれがホシノトウ、そして「ホシガトウ」と呼ばれるようになり、その後漢字が当てられ、現在の「星ヶ塔」と表記されるようになりました。
 
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要するに星ヶ塔は峠のことだから、その西の突起は「星ヶ塔山」とでもするのが正しかろうが、「塔」なんて山らしい漢字が充てられているのにわざわざ山をつけることもあるまい。

さて、避暑の山としては霧ヶ峰は最高だけれども、目新しいところはそう残っていない。先週の冷山に引き続き、黒耀石ついでと、この星ヶ塔に登ってみることにした。

この山、中山道側の星ヶ塔林道をたどればわけないが、この林道は歩行者といえども通行禁止という林道だから歩きたくないし、面白くもない。つまりは、国史跡の黒耀石採掘地には許可なく入るなということである。もっとも我々は山のてっぺんに立ちたいだけで、採掘地を見る気など最初からない。2年前、NHKの「ぶらタモリ」でこの採掘地が紹介され、いっときよく知られることになったらしい。

そこで別の方法を考えて(行程は各々が想像すればいいので略す)、これで楽勝だ、午後早いうちには戻れるだろうと思ったのは浅はかだった。頂上には無事立ったものの、近来ないヤブ漕ぎの連続と、長時間行動になってしまった。歩けると思っていた径は踏跡以下で発見すらできないのも多く、逆に地形図にない作業道は縦横にあって惑わされたり遠回りさせられる。ヤブの中ではカメラとストックを失うという体たらくで、標高1600m近い場所といっても暑さで大汗もかかされて足は痙攣するし、ほうほうの体で出発点に戻ったときにはすでに夕暮れていた。

道中いたるところに転がっていた黒耀石については、これまでに見た中で最大の量で質も最高だと思われた。しかし、刃物がわりにしたといっても、それだけのために、全国からこんな山奥まで縄文人は訪れたのだろうか。

それにしてもおとみ山、この行程をこなしたとは、お達者というどころではなく、異常だと思われる。

持栗沢山(蓼科山・霧ヶ峰)

名古屋と神戸から晴れ女のはずのおふたりが揃った6月には大雨で、それでも八千穂高原を歩いてなんとかしのいだ。そのひと月後の昨日、ふたたびご両人が集結した。すると数日前までは雨だったはずの予報が前日までには好転したのは、かくてはならじとばかり、晴れ女の念力が効いたからであろう。

さて猛暑の地からやってきたとあっては目的はむろん避暑なのだから、涼しい山に行かねばならぬ。それでいて人が多くては閉口だ。ところがこちらは星ヶ塔で笹薮を漕ぐような山には当分は凝りている。

と、いろいろと検討して選んだのは持栗沢山であった。これに、いつもとは逆コースにして東側から歩いて達することにした。そうすると、ちょうど昼頃には頂上に到着するだろうという算段である。

登り口がすでに1600mを越えているのだから涼しい。しかし木陰が少ないので肌がじりじりと灼けるのがわかる。青空に夏雲湧いて、絵に描いたような高原の夏である。盛夏の八子ヶ峰の一角だもの、多少は人出があるかと思っていたが、結局、ひとりのハイカーも見かけなかった。

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