照坂峠から四国堂へ・木喰上人の里を訪ねて(精進

2月9日の木曜山行では西側から稜線伝いに丸畑の木喰上人の記念館『微笑館』を訪ねた。微笑館から、上人の生家や、四国堂(このお堂のいきさつはここに詳しく、このサイトでは木喰上人についてわかりやすく教えてくれる)はわずかな距離だったが、次の機会に行くことにしようと思ったのは、こんどは東側、すなわち照坂峠から稜線伝いに丸畑を訪れてみたいと思ったからだった。そして昨日、ほぼひと月ぶりの再訪となったのである。

雨上がりの朝、春到来を感じさせる暖かさだった。下部まで下ればなおさらで、いたるところで梅は満開である。照坂峠への地形図の破線を北側からたどってみることにして、入り口こそ地形図との違いに少しとまどったが、すぐに本道を発見、さすがに古い道はしっかりと残っていた。しかし倒木ではばまれる部分も多く、沢の源頭を横切るところではか細い踏跡になっていたりし、適当に歩きやすいところを登って行った。歩きだしてまもなく上着は不要になった。

照坂峠には畑の跡であろう平地があって、明瞭な峠道が南へ下っていた。そこからの稜線にも畑の跡がいくつも見られ、そこへ至るのであろう麓からの踏跡も多くあった。昼休みとしたのはこの日の最高点570mのピークで、ここも畑の跡らしく広く明るかった。日陰を探したいくらいの陽ざしのもと、毎度のバカ話で一時を過ごした。

少々うっそうとした林を抜けたあと、再び畑の跡の明るい場所に出て、そこからは微笑館が見えた。踏跡は自然と四国堂へのしっかりした道となっていった。四国堂でしばらく過ごし、わずかに下って木喰上人の生家の前に出る。記念館となっているが留守であった。子孫の人も、もうここでは生活をしていないのかもしれない。

生家のわずか先にしっかりした道が下っているのを見た。これは麓に通じているに違いないと下ると、途中にわりと大きな墓地があって、これは木喰上人の生家のある集落の人たちの墓地であろう。車道がない時代、つまり上人もこの道を上下していたに違いない。細道はやがて国道からの舗装路に合流した。

下部近辺には地形図を眺めるにつけ、面白そうな山がたくさんある。再訪したいと思う。

強清水から科の木へ(霧ヶ峰)

名古屋のNさんが来てくれるというので、朝方合流するのに都合がいい諏訪近辺の山を考えた。今年に入ってからは県内の山ばかりだったから、久しぶりの信州の山となる。

車が2台あるのだから利用しない手はないと、当初考えたのは大見山だった。いつもは自転車を車の回収に使っていたから楽ができる。

ところが朝、諏訪へ向かう高速道路から槍穂の峰々がすっきり見えたので、大見山では少々もったいないと、霧ヶ峰散策に変更することにした。ま、これは元々考えていたことで、山の見え具合で判断するつもりだったのである。

去年の初秋、科の木から薙鎌神社を経て強清水まで歩いた(この報告に池のくるみの宿、旅人木さんのサイトへのリンクを張ってある。これは実に素晴らしい写真の数々で、何度見ても飽きることがない)。これを逆コースで歩いてみようと考えた。登るほうが面白いコースではあるが、大気の具合がいい時間に大展望を楽しもうという魂胆である。

科の木にNさんの車を置いて強清水に向かう。道路端の雪がぐんぐん増えていった。強清水の広大な駐車場には1台の車もなく、こんなことは初めてだった。

寡雪だったこの冬、日当たりのいい場所の雪はほとんど消えていた。歩きだして10分、四囲の光景が圧巻になったところで、すがぬまさんのスケッチタイムとなった。急ぐ旅ではない、どうぞゆっくりとお描きくださいな、と1時間あまり、我々も思う存分景色を楽しんだ。まったく、これは山岳展望として超一級である。

薙鎌神社では諏訪湖を眼下に南アルプスから中央アルプス、御嶽にかけての展望がすばらしい。ここでまたまたたっぷりと昼休みをしたのち池のくるみへ下る。その途次にある防火線に山小屋が立ち並んでいた写真が前述の旅人木さんのサイトの写真にあるが、もはやその痕跡はまったくない。

科の木への旧道は山陰に通じているので雪がたっぷりと残っており、3月に入って、今年初めての雪山気分を味わうことになった。清水橋の取水場の中に石垣で組まれた台があって、これがリフトの鉄塔の台座ではないかと想像したが定かではない。
七面堂から妙法寺を経て大法師公園へ(鰍沢)

一昨年の春、鰍沢の街中の七面堂を起点に、妙法寺を中間点にして周回する計画で出発したが(その日の記録)、当時飲み始めた薬の副作用で、妙法寺にたどり着いたあと足が言うことを聞かなくなって、残り半分は歩かずじまいだった。

その半分というのが妙法寺のある小室から大法師公園に至る山稜で、しかし歩き残したそこだけ歩きに行くのでは、地形図で見るからにほとんど農道歩きになるらしいとあってはちょっと面白くない。

そこで、一昨年歩いたとき山の上に、あれ、あの山の中に建つのは何だろうと双眼鏡で眺めた七面堂(今の地形図には寺記号だけだが、大正時代の地図には七面堂と記載されている。鰍沢から山越えで西山温泉に至る湯島道がここを通っていたらしい)にタクシーを使って登ったのち、妙法寺を経て、山稜をたどって大法師公園へ下ることにした。つまり、今回も場所こそ違え、七面堂が出発点となる。まるで法華経の行脚ですね。

甲府盆地では桜はもちろん桃も満開に近い。鰍沢の街中に入ると大法師公園の桜も今が盛りのように見える。その桜を横目にタクシーで小室へ登っていくと、すでに山中の桜も満開で、少々の標高差くらいならものともせずに一気に花開いたとみえる。

めぼしをつけておいた七面堂への道は、途中に案内など何もなかった。どうやらこれらしいと入った山道はしっかりしているが、往来は絶えて久しいように感じられた。

たどり着いた七面堂は立派なもので、壮大かつ尾根の舳先みたいなところに建っているから下界からも指摘できたのである。しかし瓦落ち、屋根に穴が開いて、このままでは倒壊もまぬがれまい。案内板だけがやけに白く新しく見える。火災で焼失したのが7年を経て伽藍が再建されたのが明治19年で、しかしその当時の建物の多くが老朽化で倒れ、現在残っているのが本堂だけだとその説明文にある。

残った本堂も倒壊するにまかせるままではもったいないことだが、これだけのものを修復するにかかる膨大な金はもう出てこないだろうとも思う。本堂内をのぞくと立派な格子天井には天井絵がはめこまれ、仔細に見ると周辺集落の個人の名前が書いてあって、彼らの寄進で出来上がっているのがわかる。これだけでも救出できないものかと思う。その何枚かはすでに雨漏りで腐っている(天井絵の写真)。

かつては桜公園だったという山の斜面は今では個人の持ち物だと聞いた。行きかう人のただ一人もいない、満開の桜の中に通じる道をジグザグに下って小室の集落に着いた。このあたりはゆずの里として有名なだけあって、とにかくゆず畑が多い。これは大法師公園に至る山稜でも同様だった。

妙法寺の驚くばかりの伽藍も桜桜、また桜である。広大な駐車場も桜並木になっていて、そこのベンチで花見の昼休みとした。その花の下に人っ子ひとりいないのだから贅沢というかなんというか。

大法師公園への山稜は想像どおりの農道で、入り組んでいてわかりづらいが、なんとか大法師公園にたどり着いた。そこで見たのは、人、人、人。

平日とはいいながら、春休みで桜まつりの真っ最中で、しかも今しも満開となればこうなるのも仕方あるまい。善男善女、老若男女の大勢にまじって、我々も桜まんんじゅうなどを買ってきて賞味したのち、もう今年の花見はこれで充分という気分になって鰍沢市街へと下った。
三湖台(鳴沢)

わざわざ木曜山行に参加しようと遠路関西からおいでのお客さんなら、久しぶりに富士山の近くまで行ってみようかと考えていたが、予報が少々よろしくない。

富士山の展望を売り物にする山々は、富士山が見える見えないで山の良さが語られるのは、彼らにとっては迷惑なことだと私は常々考えているが、ま、これは富士山に厳しい私独自の発想かもしれぬ。

イチかバチか行ってみようと出かけて正解、予報のわりには上々の富士の見え具合で、すっからかんよりは雲の変化に味があった。新緑もまだまだとあっては三湖台も閑散としていて、先着の数人が下ったあとは貸切になった。

行きがけ、御坂を登れば桃は最後の濃い色だったし、桜公園の桜も満開、だが御坂トンネルをくぐって富士五湖地方に入ると、さすがは県下一の寒冷地だけあって、八ヶ岳南麓よりずっと春浅かった。

本栖湖から四半世紀ぶりにR300を富士川に下れば、あっという間に新緑の盛りなのだから山梨県は変化に富んでいる。国道は知らぬ間にトンネルや橋梁で整備され、かつての険路の面影はなくなっていた。

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