58. 吾妻の山々・3
        1985(昭和60)年4月25日

東北は吾妻連峰の吾妻小舎、その小舎を守る遠藤守雄さんが亡くなったのが東日本大震災と同じ年の2011年の4月初め、今年で4年がたつ。

遠藤夫妻とは今は昔の1982年6月27日、雨にたたられ中吾妻山に登れず(注)、暗くなってから小舎に転がり込んだのをきっかけに親しくなり、以後は足しげく通うことになった。(参照

毎年、小舎は雪解けの4月下旬、スカイライン開通とともに営業を始めるのが習いで、それを待ちかねては残雪の山を楽しみによく出かけたものである。

この中吾妻山は1931㍍で、吾妻連峰のうちでも屈指の雄峰といってよいだろう。また、メインルートから外れて位置し、かつ明瞭な道がないために登る人はごく少ない。しかし残雪の季節ならば藪の心配もいらないし、さらに遠藤さんが同行してくれるとなれば雪辱戦も勝利疑いなし。案じていた雪解け増水の大倉川の渡りも、遠藤さんが大石を投げ込んで飛び石を作ってくれたおかげで足をぬらさずにすんだ。小舎をでたのが6時15分、山頂には10時10分についた。



上 中吾妻山からの眺め。西吾妻山のほうを見ているのだと思う。

中 谷地平へおりたところ。谷地平避難小屋が見えている。この先30分ほどのところで大倉川の渡河作戦を開始した。

下 中吾妻山の山頂。この頃、遠藤さんは髭をはやし、いっぱしの武者ぶりだった。


注 1982年の時は山田哲郎さん大森久雄さんと谷地平避難小屋に1泊して中吾妻山に登ろうとした。ところが初日の夕方から大雨が降り出し、翌日は山へ登るどころでなくなった。小屋の前の流れは腰上の深さまで増水し、渡って戻ることもできない。

結局は午後遅くまで水の引くのを待って浄土平にあがったものの終バスには間に合わない。閉めてはあるがレストハウスには明かりが見え宿直の人もいるようなので、電話を借り福島の街からタクシーを呼ぼうとなった。応対してくれたレストハウスの主任はとても親切で、「タクシーを呼ぶのもいいけれど、この春から吾妻小舎にはよい番人夫婦がはいっていますよ」と教えてくれ、「泊まるならば車で送ってあげますよ」。よって今夜はそこに泊まろうと、勤め人のお二方はそれぞれのお家へ「今日は帰らない。明日は休むと勤め先へ連絡しておいて」の電話をしたあげくに今晩の御酒をしこたま購入し、ほんの5分ばかりだが車の好意にあずかった。そんな突然の客にも遠藤夫妻は嫌な顔一つせず、お風呂(五右衛門風呂だった)まで入れてくれる歓待だった。

なお、その時、私たちを小舎まで送ってくれたレストハウスの主任は、そっと遠藤さんに「この人たちは只者ではなさそうだから大事にしたほうがいいよ」といった由、後日、遠藤さんが笑いながら、そう明かしてくれた。私たちがどういう意味での只者でなく見れたのかは分らないが、のちのち遠藤さんにはずいぶん大事にしてもらったことは事実だ。 また、これをきっかけに、その主任さんと顔なじみになり、山から浄土平へおりてくるたびにレストハウスへ立寄って挨拶し、ソフトクリームを賞味することもたびたびだった。

(2015.3)

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