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 横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠

 横尾山 再び 吾妻小舎・遠藤守雄さんの思い出を

まず、吾妻小舎(あづまごや)のホームページに載った右の写真を見てください。

写真には、「吾妻小舎主人、遠藤守雄さんが4月6日午後7時20分に逝去されました。(享年61歳)」と、遠藤さんの訃報が添えられていた。この写真を見れば「あぁ、いい笑顔だなぁ。遠藤さん、この笑顔のようにいい人だったなぁ」と、遠藤さんを知る人は、だれしもがそう思うに違いない。さらには61歳で亡くなるとは、どう考えても早すぎると惜しむこと一方ならずであろう。

また、この先、吾妻小舎に泊まる日にも「ここに遠藤さんがいたらなぁ」と何度も物足りなくと思うのではないか。お客さんに出す朝食の皿のトマトを、ああでもないこうでもないと気の済むまで並べ換えていた、そんな遠藤さんがいない吾妻小舎とは、なんとも寂しい限りである。



私は、その6日の日はロッジ山旅にいて、夕食後の談笑中の8時少し過ぎ、長沢君が「仙台の五十嵐さんからの電話ですよ」と渡してくれた子機によって、今しがた遠藤さんが亡くなったと知らされた。

えっ、なんということだ。今夜も長沢君を交えてひとしきり、みなさんと吾妻小舎や遠藤さんの話をしていたところではないか。

「長沢さん、遠藤さんがついさっき亡くなったんだって。……、……。そういえば、ここに遠藤さんや寺田君と泊まったこともあったねぇ、あれは、どのくらい前になるかしら」。

それは11年前のこと。2000年12月4日の夜になる。

このロッジ山旅には、守雄さん雅子さんの遠藤夫妻のほかに、丹羽彰一さん、寺田政晴君、それに私たち夫婦がいて、やはり夕食後の談笑を楽しんでいた。その夕刻、寺田君と私たち二人は「行きがけの駄賃登山」の百蔵山に登ったのちにロッジに着くと、やがて国立の丹羽さん、東北は吾妻小舎の遠藤さん夫妻がそれぞれ車でやってきた。

丹羽さんも寺田君も、それまで吾妻小舎には何回か泊まったことがあって遠藤夫妻とは親しい仲だった。いま、その夜、なにを話したかは記憶にないが、例によって例の如しに人や山を縦横に語り、みなご機嫌うるわしかったことだけは確かである。

翌日は、飯田のほうに取材に行くという寺田君をのぞいて、みなが横尾山に登った。遠藤夫妻、丹羽さん、こちら二人、それに長沢一家の三人である。このとき令嬢の渓ちゃんは、まだ3歳。時にはお父さんに背負ってもらっての上下であったと覚えている。

信州峠からの往復だった。冬枯れのよく晴れた日で眺めはよく、遠藤夫妻は見慣れない甲州信州の山々の眺めに喜んでいた。このときの写真も何枚か見ていただこう。


                                     2000年12月5日 横尾山にて 長沢撮影

山からおりた後、丹羽さんは帰り、遠藤夫妻と私たちは、ロッジにもう1泊した。そして、その翌日は遠藤さんの車に乗っての大ドライブになった。

まず、神津牧場へいって物見山に登り、上では寒風に震えあがったにもかかわらずに牧場の食堂でソフトアイスを賞味。スラローム的な危なっかしい車道を遠藤さんの運転よろしく上州側におりたあとは、試行錯誤の道読みで足利へいって足利学校を見学、さらには吾妻小舎常連のお客さんがやっているという喫茶店でコーヒーをご馳走になった。すでに冬の夜は真っ暗。こちらは東武線の新桐生駅まで送ってもらって帰った。遠藤夫妻は、どこかで泊まっていくかと話していたが、あとで聞くと、その日のうちに福島まで帰ったという。

こうして遠藤さんが亡くなったと聞いたときには、もう10年以上も前にはなるが、そうだ、そうだったのだと、あのときの横尾山登山を思いだしたし、また、おのずと、かれこれ30年になる遠藤さんとの親交もよみがえってくるのだった。加えて同席の深田沢二さん、三井千恵子さんにも、遠藤さんと知合ったのは、こんな具合だったのですよと聞いてもらわずにはいられなかった。



「それは、かれこれ30年前の梅雨時で(正確には1982年6月27日)」と始めて‐‐

山田哲郎さん、大森久雄さんと同道で、中吾妻山に登ろうという山行だった。前日に谷地平の避難小屋に入ったまではいいが、夕方から激しい雨に降られて山どころではなくなった。小屋の前の流れが大増水し、翌日の朝、引き返すという同宿のパーティが渡ったときは胸近くまであった。こちらは、とてもあれでは渡る気がしないと水が退く午後おそくまで待ち、やっと浄土平へあがったときは、すでにうす薄暗くなっていた。最終のバスもとっくに出たあとだった。幸いレストハウスに明かりが見えたので、電話を借りてタクシーを呼ぼうとドアをたたくと人のよさそうな主任さんが出てきてくれ電話はもちろんだが、この連休から吾妻小舎によい番人夫婦が入るようになったともいうのである。それを聞いて、みんなの気が変わった。

なにもこれから無理して帰る必要は毛頭あるまい。今晩はそこへ泊まろうではないかと衆議一決の早いこと。「帰るのは明日にした、勤め先にはよしなにいっておいてくれ」と勤め人お二方の電話が終わるや、そろって今夜の酒を買いだした。鳩首「どの銘柄が美味いですかね」とはいい気なものだと思った。

そのレストハウスの主任氏はとても親切で、小舎まで車で送ってくれた。そして、不意の飛び込み客をいやな顔一つせずに温かく迎えてくれたのが遠藤守雄さん雅子さん夫妻だったというわけ。

なお、あとで聞くと、その主任氏は私たちを送りとどけた帰り際に「この人たちは只者ではないと思うから、大切にしたほうがいいよ」とそっと遠藤さんに告げたそうである。私たちが只者であるかどうかはいざ知らず、なにしろ心のこもった歓待であった。お風呂にも入れてもらえて、とても楽しく過ごすことができた。食事もよかった。これでいっぺんに吾妻小舎、すなわち遠藤さん夫妻の人柄に魅せられ、以後、私たちはみな回数多く吾妻の山へ登るようになった。

私たち夫婦にとっては、ロッジ山旅と同じように管理人付きの別荘のようにも思えて1年に5回も通った年もあった。ことに残雪期の登山が楽しさ極まりなかった。東吾妻山にしろ鎌沼周辺にしろ何十回と歩いたが、けっして飽きることはなかった。また、交通不便な阿武隈の山々を多く稼げたのも、遠藤さんの車に乗せてもらってこそだし、遠く青森は十和田湖周辺の山へいったこともあった。



「遠藤さんは万年青年のようだ」と、丹羽さんはよくいっていた。確かにハンサムでいつも若々しく、重い宿痾があるにしろ、そんなところをめったに他人には見せなかった。大森さんも、ずいぶんあとになって私がいうまで遠藤さんが身障者手帳の持ち主だとは気づかなかった由。今年の2月、急遽入院したと聞いて福島医大病院に見舞いにいったときも、けっこう話もし、力強い手の握りだった。

思い出はつきない。それに、いま、こうしてパソコンに向かっていても、遠藤さんが亡くなったとは、どうにも信じられないのだ。あの語尾上がりの冗談も聞こえてくる。「横山さん、まだ、お客さんを連れて歩いているのかい?、大変だねぇ」(この「お客さん」とは言わぬが花、遠藤さんと私だけの隠語である)。



注記 吾妻小舎のホームページに載った遠藤さんの写真は、やはり遠藤さん夫妻が小舎に入ってすぐに知合い、常連となった加倉井厚夫さんが昨年9月、小舎の前で写したもの。
                                      (2011.4)


      2005年8月/鳥子平にて 横山撮影   写真をマウスでポイントしてください。

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