私が最初に乾徳山に登ったのは1953(昭和28)年の10月14日、前夜は徳和の山登旅館に泊まっている。当時、徳和の山登旅館といえば、登山者の面倒見がいい坂本とよじという賢夫人で有名だった。今は廃道になってしまったが、松霞新道という登山道を開いたのも、この坂本とよじさんであり、松霞とは、その雅号の由。
私は、ひと目、その有名夫人の謦咳に接したく、あえて学生の身ながら旅館泊まりを奮発したと覚えているが、今となっては肝心のとよじさんの顔を見たかどうかも思いだせない。
かろうじて覚えているのは、岡田紅陽の弟子と称する写真撮りのオジサンと相部屋になり、そのオジサンの持つ組み立てのご大層な写真機に目を見張ったことくらいである。一方、私のポケットに納まるのは父親の形見のベビーパールで、これはベスト半裁判、今でいうならばコンパクトデジカメそのものの、ごく小さなスプリングカメラだった。
なお、山の記録帳には、東奥山窪‐大ダオ‐黒金山‐乾徳山‐徳和と記してあるが、道中のことは何一つ覚えていない。
こちら3枚の写真は、今から40年ほど前、1972年の秋に家人と登ったときのもの。すでに山登旅館は廃業していたので、和楽荘という民宿に泊まった。名取姓の品のいい老夫妻がいる親切な宿で、1泊2食付で1250円だった。
なお、徳和から乾徳山の天辺までは1100bの標高差があり、1000bを1日で上下するのはけっして楽ではない。このあと、1993(平成5)年9月に中野英次さんと日帰りで登ったが、相当きつかったと覚えている。結局、私は乾徳山には過去3回登っただけで、この先、もう登ることはないだろう。それに正直いって、この乾徳山、私はあまり好きな山ではない。
補記 『中村謙 山ひとすじ 遺稿と追悼』(茗溪堂/1981)の口絵写真の1枚に「山梨テレビに徳和の坂本とよじさんと出演 昭和35年7月5日」があり、中村さん、坂本さんが並んで写っている。また、本欄の「硫黄岳・麦草峠」では中村さんのことにも触れている。
上 乾徳山頂上から黒金山、国師岳方面。
中 中腹の国師ヶ原には、こんな小屋があった。今ある高原ヒュツテの前身だろうか。
下 徳和集落俯瞰。家並みも家の造りも、もうずいぶん変っていることだろう。
(2013.5)
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