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           閼伽流山 2009.12.28



かなり前のことだが、地図を見ていて、いったいこの山は何と読むのだろうと思ったのがそもそも記憶に残った最初だった。難しい字にはこういった効用がある。むやみに地名を平仮名や片仮名にしないほうがいい理由のひとつである。

「あかるさん」と読む。この年の5月の木曜山行で、本来なら奈良倉山へ出かけるはずだったのを、降り続く雨に道路状況が怪しくなったので、代替案として選んだのが佐久市のはずれにあるこの山だった。上信越自動車道のトンネルがこの山を貫いていて、入口には「閼伽流山トンネル」と書かれているから今では名前くらいは知っている人が増えたかもしれない。

麓の明泉寺が登山口である。背後にある閼伽流山は城壁のように岩壁をめぐらせている。車も通れる道が通じているが、悪路なので寺の駐車場を借りて車道を歩く。

道々、多くの石造物が現れる。半ば草に埋もれたようなものが多いのが古い歴史を感じさせる。杉の大木が現れると行く手にまだ新しい鐘楼が見えてくる。そして絶壁の下にはおびただしい石仏が並ぶ。絶壁からは水がしたたり落ちている。「閼伽」というのは冷たい清冽な水だという。なるほどこれが山名の由来であろう。絶壁の前にはこれもまだ新しい立派な観音堂がある。

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いつの間にやら恒例のようになっていた、横山さんとそのお仲間との忘年山行、この年集まったのは横山夫妻と泉、國見、深田の各氏。初日に羅漢寺山を歩き、そして2日目は閼伽流山に行くことになり、それにはたわらさんと私の妻子が加わった。

私にとってはこの年4度目の閼伽流山であった。雨模様のときに、傘をさして歩ける道があることと、立派な客殿で雨宿りもできるのが好都合だからだが、なにより、ちょっと他にない雰囲気がすっかり気に入ったのである。

葉の落ちきった閼伽流山ははじめてだったので、城塞のような岩壁や山中多くある石造物をよく見ることができたのは収穫だった。

観音堂から少し下ると、よくもこんな急な斜面に積み上げたものだと思わされる石垣が残っている。最後の、クリオの写っている写真がそれだが、ひとつひとつの岩が異様に大きい。当然その上にはこれだけの石垣を必要とする建物があったのだろうが、跡形もない。

行くたびに想像のふくらむ閼伽流山であった。

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閼伽流山をネットで調べているうち、その名も『信濃閼伽流山』という本があるのを知った。昭和45年に出版され、著者は三石勝五郎という人。

ネットの古本屋で調べると、送料込みでも1000円程度で手に入りそうなので買うことにした。観光パンフに毛の生えたようなものかと想像していたが、届いた本を見てびっくり、実に立派な造本で、当時の定価が2000円というから相当なもの。武者小路実篤が序文を書き、平山郁夫の絵が7、8枚挿入されている。昭和天皇が摂政だった大正時代にこの山に行幸したときの写真も載っている。

歩き出してすぐにある、この山中でもひときわ大きい石碑には「南朝忠臣香坂高宗」と彫られているが、この香坂高宗は信濃宮宗良親王を伊那大河原上蔵(わぞ)にて庇護した人である。この上蔵こそは、私たちが毎度お世話になっている大鹿村の宿延齢草の建つところなのである。

閼伽流山にあったという山城に香坂高宗は宗良親王を奉じた。閼伽流山の麓は香坂という地名だが、その地名に氏は由来する。親王が大河原から佐久に至るのに、蓼科山の北を通ったので、そこを大河原峠というとか。

前記の本から得た知識である。

現皇室は南朝を正統としているというので、昭和天皇が摂政時代にここを訪れたのも意味があったことなのだろう。

(2015.7) 

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