1970年代は、山登りに夢中だった同世代の若者が「早い者勝ちの世界観」に呑み込まれて高い代償を払った時代だった。主要な巨峰は登りつくされてはいたが、魅力的な7千メートル峰や巨峰の困難なバリエーションはまだ未踏のまま残されていた。事に先んじた者だけがその「初」の栄誉に与り、メディアを通して公表され、登山史の隅にでも追加されたりすれば悪い気はしない。
その一方で高所の危険は目には見えず、深刻な事態が積み重なったのちにしか広く認知されない。ハツモノ業績ばかりを重視し、高所が人体に及ぼす影響について、警鐘を鳴らし足りなかった当時のメディア側にいた一員として忸怩たる思いもある。
良くも悪しくも私には高所へ挑むような才能も能力もなかったし、人のサポートを前提にする山の登り方には興味がなかった。そんな私だったが、山の仲間には恵まれた。組織には属していなかったが職場環境のせいか、友人を通じてそのまた友人と出会い、危なっかしい体験を重ねながらも、いつか仲間としての強い結束が生まれた。
そんな仲間との最初の大きな登攀が73年夏の奥鐘山西壁だった。国内で最も困難な岩壁のひとつも、まだ一部のクライマーの間でしか知られていなかった。当時、RCCUグレード研究会で進められていた『新版日本の岩場』編纂の出版側の担当だった私は、インサイダー情報をいち早く得て、国内で最高とランクされる岩壁がどんなものか試してみようと仲間4人で挑んだ。
ハツモノを狙うほどの能力も野心もなかったが、衝立や屏風といった当時の高難度ルートは何度も登っていた。奥鐘もその延長線だろうと思っていたのだが、現実には屏風と奥鐘の間には大きなギャップがあった。仲間たちはそれを軽々と乗り越えたが、私は壁のスケールや難しさに圧倒され、トップに立つ機会も、意欲もなくしてしまった。個人的には過ぎたる課題だった。
初登から間もないルートだけに残置類はわずか、垂直のスラブや張り出した屋根に残された数本のボルトだけが誰かが登ったことを示していた。夏の時季を選んだのも戦略ミスで、岩壁はフライパンのように熱を放ち、喉の渇きに苦しめられた。壁の中でふた晩過ごす厳しい体験をともにしたIとKは、このブログにも何度か登場しているが、もうひとり、ひときわ異彩を放つNがいた。
彼は私よりひとつ上で、大学山岳部育ちのOBだが組織に縛られずクライミングをやりたいと私たちに合流した。逆境に至ってのちにスイッチが入るタイプで、ピンチの時が彼の真骨頂だった。冬の屏風で登攀終了点近くから空中に落下、横断バンドに居合わせた他パーティーに雪中から掘り出されたとか、8千メートルを超える高所から悪天候の中を這い下りて生還、正月過ぎの誰もいない穂高の岩壁にソロで挑む等々、彼をめぐる逸話は数え上げればきりがない。
駆け出しの頃、私と登った秋の衝立も今となっては忘れられない体験だった。思いがけず前傾壁を抜け出した凹角の出口で夜を迎えた。先行パーティーのアクシデントが原因だった。私のヘッドランプはタマ切れ、彼の方は点滅状態。雷鳴が大伽藍に響き渡る中を、点滅する光を頼りに細かくピッチを区切り、尺取虫のように登っていった。稲妻に一ノ倉の岩壁群が浮かび上がるすさまじい光景は今も忘れない。闇の中を手探り足探りのすえ、最後は北稜のブッシュの中へダイビング。あの強烈なクライミングを笑って語り合えるNはもういない。一線を退いたのち彼は家業に専念、しばらく音沙汰がないと思っていたら本人の訃報が伝えられた。山も仕事も文字通り駆け抜けた人生だった。

OCCルート最後のハング帯をリードする板垣克夫。皮肉なことに、6メートルほど張り出したこのオーバーハングが、困難なルート中で唯一残置ボルトが利用できる息の抜けるピッチだった。(1973年8月上旬)

紫岳会ルートの猿回しテラス上のピッチをフォローする荒木省一。花崗岩質の美しい岩肌、左下には黒部川を見下ろすバルコニーのような猿回しテラス。(1976年10月上旬)
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