私と北杜の山山     北杜五十山選定委員長  佐々木正一

私が生まれ育ったのは旧大泉村です。子供のころ、シモヤケで赤く張れた足や手の指をさすりながら、冬の白い山を見上げて恨んだことがあります。なんでここはこんなに寒いのだろう。あの山のせいに違いない。絵本には南の海の物語がありました。海は明るく暖かく、そこでは簡単な着物で一年中いられ、苦労して畑を耕さなくとも魚がいくらでも採れて食べ物に困らないと書いてありました。ああ海を見てみたい。海のそばに住んでみたい。

ところが兵隊にとられて行くことになったのは、オホーツクの島でした。北の海は冷たく青黒く、風は肌を刺しました。島の山は低いのに夏でも雪がありました。冬は雪で白くなろうとも、夏には緑なすふるさとの山がひどく懐かしく思えました。荒涼としたシベリアでの抑留を経て、命からがらふるさとに戻ってきたら、かつては恨んだ山山が、嘘のように親しく美しく目に映ったものです。

それからでした。私の家から見える山山のてっぺんに登ってみようと思ったのは。そしてはや六十年あまりが過ぎ去り、見える範囲に私の登っていない山はほとんどなくなってしまいました。目につく限りの尾根筋もたどりました。この歳ではもう山に登ることはありませんが、登った山山や歩いた尾根がすぐ目の前に見えることを喜ばずにはいられません。私の一生の宝です。

先年、旧北巨摩郡の八町村が合併して北杜市が誕生しました。面白いことに、我が家から見える山山のほとんどがこれで同じ市内になったのです。

これだけの山山を擁した市はめったにはありません。ひょっとすると日本中さがしてもないかもしれません。そこでその中からめぼしい山を選んでみようという企てが生まれました。そんな折、私に選定委員長をとのお話があったのは寝耳に水で、この老体に何を今さらと思ったものですが、私を育んでくれたふるさとの山に感謝する意味でお引き受けすることにしました。流行りの百山ではどうだろうかと最初は考えたのですが、さすがにそれでは荷が勝ちすぎます。そこで、半分の五十山にして選定することになりました。この仕事がおそらく私の最後のご奉公となるでしょう。

事実上の実務は長沢洋君に負ってもらいました。八年前この地でペンションを始めた彼とはひょんなきっかけで知り合いました。山好きは互いに引き合うところがあるのかもしれません。彼はこの地で生まれ育ったわけではありませんが、しかし、だからこそ、そこでしか暮らしたことのない者にはわからないことがわかることもあるはずです。私とて、兵隊にとられるまでは、自分の周りの風光を美しいと思ったことなどなかったのですから。聞けば、彼は何よりもまずこの土地の山山に惹かれたのが移り住んだ理由だといいます。

近所の山にばかり登っているのを、金がなくて遠くの山には行けないからだと長沢君は言いますが、人から伝え聞く宿泊業の低迷からすれば、おそらく本当のことでしょう。けれども、わざわざ遠くまで行かずとも、近くで用が足りるくらいの山は北杜市にはあるじゃないか。なぐさめるつもりでそう彼に言うと、何を今さら、そんなことはわかりきったことだというような顔をしました。それだけでも私の足りないところを補ってくれる資格があるというものです。選定の仔細については彼から説明があるでしょう。

この五十山をはじめとする、ふるさと北杜の山山が人間の勝手な営みによって蹂躙されていることを聞き、悲しく思うことがあります。これらの山山は私たちの母も同然ではありませんか。いつまでも美しくあれと願わずにはいられません。