シスイ峰(茨沢川左岸散歩)(松原湖

8月は例年なら本業が忙しくなって木曜山行の計画も立てないが、コロナのご時世では観光客も減って、幸か不幸か今週も山歩きに出かけられることになった。

真夏は納涼山歩きというわけだが、毎度毎度の中信高原では陽ざしが強過ぎて、体調不良の身にはつらい。そこで思いついたのが、昨秋にわけあってひとりで歩いてみた茨沢川左岸の作業道だった。カラマツ植林時に使われた道がなかば笹に被われながらも残っている。その作業道と林道をぶらぶらと歩いて周回してみることにした。標高は17-800メートルくらいの林歩きだから涼しいし、陽ざしはさえぎられる。そしてまず人はいない。

とにかくカラマツばかりなのは愛嬌がないが、その植林作業道を歩いているのだから文句は言えない。盛夏の緑も悪くはないが、去年歩いたときには全山が金色に染まっていて素晴らしかった。

納涼散歩といってもどこかピークが欲しいのが山屋の習性というもので、地形図にあったわずかな突起をこの日のピークとした。1845mというところか、山の下の林道にあった看板の文字から「シスイ峰」と名付けた。

その山に登頂後は、まさしく迷路のような作業道をたどって出発点に戻った。昨日は林内に重機が入って道を開削し始めていた。いつ頃に植えられたものか、もうかなりの高木になっているから、近いうちには皆伐されて丸坊主の山になってしまうのかもしれない。そうなったらそうなったで大展望が楽しめることになる。

下界は40度にもなろうという日、いかな高地でも歩けば背中に汗をかく。しかし木陰で一服すればその汗に風があたってヒヤッとする。このまま下りたくないねとは皆の一致した意見だった。

和田峠越え(霧ヶ峰)

雨天で順延したおかげで好天に恵まれて正解で、都合がつく人が増えて盛会になったひと月ぶりの木曜山行だった。

木曜日が曇りの予報に、それでも楽しめるだろうと計画した中山道歩きだったが、展望主体の山歩きではなくとも天気がいいのに越したことはない。久しぶりに気温が高くなって、登りでは少々汗はかいたものの、終始木漏れ日の中では肌がじりじりすることもなく、なんとも爽やかな緑陰の峠道歩きになった。

最初は峠道の北側をつまみ食いするつもりでいた計画も、名古屋のNさんが車を出してくれるというのでは、このチャンスを逃すまじと、西餅屋から東餅屋へ、和田峠越えの正念場とも言える部分を完全に平らげることにしたのである。

今回、初めて峠越えをしてみて、全線にわたる道の良さには感嘆した。道はほぼ丈が短く柔らかい草で覆われ(峠の北側は添付写真のような道が終始続く)、特に下りでの足への負担がまったくといっていいほどなかったのは、病気で足に不具合のある私にとってはありがたかった。

東餅屋の峠道入口にある案内板によると、幕末、皇女和宮が徳川家持へ降嫁する際には、4日間にわたって延べ8万人がこの峠道を越えたとある。それだけの大行列は稀だったとしても、五街道のひとつだもの、相当数の人間が毎日この道を歩いていたのだろう。それが昨日はすれ違った人はただのひとりもいなかった。その落差を想うにつけ、こういった大街道の中でも、往時とさほど変わらないであろう山道を歩く価値はある。

今回、木曜山行には初参加だったHさんは、ロッジ山旅草創期から何度となくお泊りいただいたお客さんだが、8年ばかりご無沙汰だった。聞けばやっと自由の身になり平日に行動できるようになって木曜山行のことを思い出してくれた由。

Hさんと名古屋のNさんは前夜泊で、話すうちには、国語教師のNさんがアジア系の人たちに日本語を教えるときに使う教科書の出版社がHさんの勤め先だったことがわかり、これは奇遇と盛り上がったのだったが、その上、名古屋に共通の知り合いまでいることがひょんなことからわかったのである。まったく世間は狭いものである。そんな出逢いがあったことでも記憶に残る山歩きとなった。
八千穂高原散策(松原湖)

横浜YYさんたちが1年ぶりにご来館になった。恒例の春の山歩きがコロナがらみで中止になったから間があいたのである。在米の息子さんがこれも久しぶりに帰国するというので運転手役が頼めることになって、咳が出やすいので公共交通を使うのを遠慮していたという実に面倒なご時世とあっては、やっとチャンス到来となったのである。

初日は足慣らしで八ヶ岳横断歩道をぶらついて、2日目がちょうど木曜になるので、ならばと木曜山行に参加していただくことになった。とはいえ、もはや風前の灯状態の木曜山行は、行く人があれば行きましょうといった消極的な催行状態で、計画は直前の決定、つまり行く人に合わせて行先も決める。

YYさんのお好みで行きましょうと条件を聴いて、毎度毎度の八千穂高原を散歩することになった。さてさて、毎年9月はおとみ山の生誕月というので、山歩きついでに生前慰霊祭をしている。地元からはそのおとみ山だけが参加できたのは都合がよかった。いったい何回目の生前慰霊祭でしょうね、いいかげんにしてくださいよと冗談が出るのもお元気な証拠で何よりである。

美しい雑木林の中の歩道は平日にしか行かないせいか人に会ったことはない。昨日も人の気配はなく、道端にまだつぼみのハナイグチを採りながら歩いた。途中のあづま屋でささやかにお祝いをし、1時間あまりを過ごした。こんなにいい場所で誰に気兼ねなく談笑できるとはありがたい。

YYさんたちは連泊だし、もう一度きちんとお祝いをしましょうよとおとみ山を誘ってのロッジ山旅の夜、収穫したハナイグチはおろし和えにして、今年初の秋の味覚を楽しんだ。

和田宿~牛伏山(和田)

前々週、和田峠えをして、その峠に「古峠」の別称があることを知った。古峠があるなら新峠もあるはずとネットで調べると、明治の初めから昭和の初めまで、50余年に渡って越えられていた峠があって、今の和田トンネルの真上だったらしい。

なるほど、ならばそれを見に行こうと計画を立てた。しかし午後から天気が悪くなるとの予報に、少々早い出発としたのが裏目に出てしまった。現地に向かううちには早くも雨が降り始め、出発点とする西餅屋に着いたときには雨こそ小やみになったものの、山はすっかり霧に埋もれ、たどるつもりだった、道らしい道がなさそうな尾根に取り付く気にはなれなかった。

そこで何はともあれ車でビーナスラインまで登ってみたが濃霧のままで、それでもと和田トンネルの上まで様子を見に行ってはみたが、完全に字の消えた古い道標が朽ちているのを見ただけで、上からのぞくトンネル上部には峠の痕跡があるようには見えなかった。

山歩きはあきらめて和田宿散策でもするかと下る。その和田宿も閑散としたもので、本陣をはじめ何軒かの宿屋の遺構などを見学したが、他の見学者はひとりもいなかった。本陣に置かれた資料の多くが和宮降嫁の際のもので、いかにそれが大事業であったかがわかる。明治時代の西餅屋や東餅屋の写真も飾ってあって興味をそそられた。

宿をぶらぶらしている間には日が射し始めて、午後から崩れるという予報とはまるで反対である。こんな空なら昼飯を食いに牛伏山でも行ってみましょうかと美ヶ原へ直行、風は強かったものの冷たくない南風で、しかもまずまずの展望もあって、少しは山歩きをした気にもなった。

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