杣口山(川浦

毎年4月の初めには甲府盆地を巡る山でも街に接したような低山に登ることにしているのは、むろん桃や桜の花期だからだが、10年以上もそんなことを続けていれば都合のいい山々も払底するのも当然で、それでもどこかにまだ登り残している山はないかと地形図を眺めていて目についたのが杣口山であった。そこで去年の計画に入れたが雨で順延したので人が集まらず、それではとひとりで出かけたことは木曜山行の記録として書いた。http://yamatabi.info/2016d.html#2016d2

これはなかなかいい山だと秋にも再び計画したが、またも雨で中止、三度目の正直とばかりにまた4月の計画に入れたら、ついに晴天となった。

桜が遅かったから桃とともに盆地のいたるところで咲き競っている。別に山に登らずとも、行き帰りの車窓からだけでも十分楽しめる甲州の春である。

車を利用した登山では駐車場所に頭を悩ますが、まきおか道の駅を基点に周回コースが取れるとあっては実に好都合である。去年とは少し違う方法で稜線に取り付く。稜線の西麓では、一本桜がブームになって有名になった、乙ヶ妻の枝垂桜が折しも満開で、どこからか眺められないかと思っていたら、少々枝には邪魔されるものの、うまい具合に見下ろせる場所が一か所だけあった。

新緑にはいささか早く、ミツバツツジがやっと花をちらほらと開き始めたばかりだった。少々冷たい北風が強く、頂上では風を避けられる南側の陽だまりに移動して昼休みをした。

下りにとった、三角点の南西ピークから南に延びる尾根上には大岩を縫って下るところがあり、その積み重なり方の妙は一見の価値がある。全体に大岩の多い山で、有名な山ならきっとそれぞれに名前が付けられているだろう。

帰りには甲府盆地の南側をたどったので、行き帰りで盆地をほぼ一周して桃や桜を眺めたことになった。

御陵山〜中窪ノ頭〜大門峠(御所平)

素晴らしい好天になった。予定していた鹿教湯の富士山に遠征するにしてもこんな天気なら気分も上々というところだったが、あいにく人が集まらなかった。

近場でどこかないかと思案していたら、参加予定のSさんから、富士山でなければ御陵山でどうでしょうとリクエストがあり、渡りに舟とその案に乗ることにした。この山にはちょうど一年前、これも予定変更で登ったばかりで、しかもその翌週には前回の杣口山に登ったのだから、期せずして二つの山に続けて一年ぶりに登ることになった。
http://yamatabi.info/2016d.html#2016d1

もう10回以上も登った御陵山だから、ありきたりな登路では面白くないし、その往復ではさらに面白くない(もっとも、これは私の問題で、初めてのSさんには関係ないが)。そこで、去年登って御陵山に登るならこれに限ると思った南西尾根を登り、大門峠まで縦走してみることにした。飛び道具を手に入れたおかげでこんな縦走でもできるようになったのである。

去年は突然思いついたので取り付きで少々藪を漕いだが、今回は合理的な道筋を考えてから行ったのですんなりと尾根に乗る。小さな岩場の登りは小気味よく、芽吹きには早いが明るいミズナラ林はすばらしい。

春にしては空気の澄んだ日で、頂上からは北アルプス北部から頚城の山々まで眺められた。のんびり登ったがまだ昼前だったので、昼休みは大門峠への途中にある中窪ノ頭(1783m)ですることにしてひとしきり眺めを楽しんだあと出発する。

中窪ノ頭という山名は、原全教『奥秩父研究』(昭和34年・朋文堂)の図版によるが、本文中ではこの名前は出てこない。図版によると山の北、南相木側に中窪という沢があるのでそれに由来するのだろう。川上側には異なった呼称があるのかもしれないが不明。

この中窪ノ頭はなかなか手ごわい岩峰で、手前までは来たが、腰を痛めていたので登らずに戻ったことがある。

無理をすれば尾根伝いにも登れそうだが、こういった岩峰は行き詰ったときに戻るのが危険である。なるたけ弱点を見つけて岩を北へ南へと巻き、山の東側にいったん出たあとに登り返して頂上に達した。このあたりシャクナゲが多いので花期には見事だろう。

北側に開けたこぢんまりした頂上は大勢ではくつろげないが、たった3人なら快適な座敷である。これはいいところだとばかり、1時間余りを壮大な眺めとともに過ごした。

大門峠から下るといずれゴルフ場に突き当たってしまうので、中窪ノ頭から南に下るのが面倒がなさそうだが、大門峠に興味もあったので主稜線を下ることにする。

私は林道が大門峠を越えているものと思い込んでいたのだが、林道はさらに東で稜線を越えているらしく、掘割状の大門峠はそのまま残っていた。誰が書いたのか品のない黄色いペンキで大門峠と岩に書かれた文字がほとんど消えかかっていた。

北へ下る峠道は残っているようには見えなかったが、南側には最初はあるかなしかの踏跡があった。それもいつしか消え、適当に下ることになった。やがて突き当たるゴルフ場のグリーンをどんどん突っ切れば楽だが、さすがにそうもいかないので、ゴルフ場の淵で藪を漕ぐことになったのが山の最後としては面白くなかった。中窪ノ頭から直接下ってしまうのが正解であろう。(古地図によるとかつての峠道はゴルフ場の中を通っている。ゴルフ場への車道の脇に石仏が並んでいたが、造成で峠道を破壊したときに保存されたものだろうか)。

臨幸峠〜合羽坂(御所平・信濃中島)

『信州高原列車の旅』(実業之日本社・ブルーガイド)というガイドブックの昭和48年版は高校生時代の愛読書で、隅から隅までなめるように何度も読んで、信州の山や高原への思慕を募らせていた。要するに青い春の夢想のひとつだったのである。だから、この本に載る臨幸峠越えのガイド文などそらんじるほど読んで、空想の上では高校生のときに何度越えたかわからない。

甲州とはいってもほとんど信州境に住まうようになったのは、そんな思慕の一念がついに実を結んだように見えなくもないが、そんな執念もなければ能力もないとなれば、ただただ成り行きだったというしかない。

ともあれ、このガイドブックで紹介されている、小海線沿線の諸々がごく近所になって、臨幸峠をも実際に何度も訪れるようになったのは不思議な縁だとは言えるだろう。

もっとも、この峠を最初に南牧村側から訪れた10数年前には、すでにかつての峠道などほぼ残っておらず、ガイドブックの文章はほとんど役には立たなかった。南相木村側から登ってみたのはわりと最近のことだが、こちら側にはそこそこの径が残っていた。しかしそれにしても道標ひとつあるわけではなく、慣れない人には径の発見も難しいだろう。

南相木村側から登ったことのあるすがぬまさんや鉄人Mご夫婦が、逆側からも登って峠越えを完成させたいと参加、地元の物好きがそれに加わって最近にない人数の木曜山行となった。心配された雨も未明にはやんで、青空こそないものの、新雪の降った八ヶ岳はすっきり見えている。

佐久往還の通る、野辺山原の市場は、現在高原野菜の共選所があるが、かつて馬市が開かれたことからその地名がある。南相木で育てられた馬が自分の足で臨幸峠を越えて市場へと向かったわけだから、馬の歩けるくらいの峠道があったはず。しかし今では伐採作業道がほぼ峠まで通じてはいるものの、古い径は跡形もない。集落に近い路傍に点々とある馬頭観音が往時を偲ばせるのみである。峠に近づいてからは狙いを定めて適当に鹿道を拾っていったが、少々遠回りでも作業道を伝ったほうが楽かもしれない。

たどり着いた臨幸峠にはそれを示す何物もない。最初に登ったときには由来が書かれたブリキの板がぶら下がっていたが、それもなくなっている。

臨幸峠からは、同様に廃れて久しい合羽坂峠への縦走に入る。尾根道は刈り払いもされてすっきりしているのは意外なほどで、地元民が山菜きのこ採集に支障がないように尾根道の刈り払いをしているのだろう。一般道以上に歩きやすいのは人の訪れの少ない地面が柔らかいせいもある。道標や目印がまったくないのも気分がいい。麓のいたるところに「区民以外は入山禁止」と書かれた幟がはためいているので、余所者にとっては肩身が狭い山域だが、歩くくらいの楽しみは許してもらうしかない。

臨幸峠、合羽坂、そしてその先の大芝峠、そのいずれもが廃道か廃道に近いのだから、いつ地形図から名前が消えるかわからない。野辺山原の佐久往還を北へ向かうとき、これらの峠の越える稜線は正面に常に見えているが周りの派手な山々のせいで注目する人は少ない。見過ごされているおかげで静けさが保たれているのは嬉しいことだと言わねばなるまい。

御弟子〜大平山(市川大門)

今週は参加予定がご常連Sさんおひとりだけなので、さてどうしたものかと考えていたら、好天の予報に横山夫妻がいらっしゃることになり、それなら水落観音から龍岡城へでは少々行程が長い。水落観音を往復するだけでも悪くはないが、せっかくの新緑の時季なのに、そこまでの参道は概して植林地なのでもったいない。

そこで思いついたのが芦川左岸の稜線である。蛾ヶ岳から太平山にかけての稜線は、私の見るかぎり山梨県でも屈指の樹林の良さで、新緑と紅葉の時季にこそ歩くべきである。

横山さんが昭和54年にこの稜線を蛾ヶ岳から精進湖へ歩いたときのことはロッジ山旅のサイトに書いてもらっている。
http://yamatabi.info/yokoyamaq12.html

その途中にある大平山は縦走時には南側を巻いてしまう山である。その際にも登っていないというので、それではそこを目標にしましょうとなった。この山域を新緑の時季に再訪するのは5年ぶりで、これまでにも何度か計画したことはあったのだが、すべて流れてしまっていた。

大平山に登るもっとも簡単な方法は御弟子からだが、その分、車に活躍してもらうことになる。今では身延町になってしまった旧下部町には、よくぞこんなところにという場所に集落が点在するが、御弟子はその中でも八坂とならんでもっとも高いところにある集落だった。山梨県で最後に電気が通じたこの集落も、今では日々電気を使う人はいない。

御弟子から折門への峠道は、御弟子にあった小中学校の分校へ折門の子供たちが通う通学路であった。ところどころ怪しい部分があるものの、ほぼしっかりした径が残っている。つい半世紀前にはこの径に子供たちの声がしていたのである。住人だった子供はともかく、先生たちはどうしていたのだろうか。学校の中に仮住まいもあったのかもしれない。

新緑は大平山の南稜に入ると圧巻になった。御弟子、または折門、さらにはその南麓の集落から甲府に出るには必ずこの径を通ったことだろう。長く踏まれていただけにしっかりとした径である。現在、いったい年間何人が歩くだろうか。

折門峠からはひと登りで大平山だった。久しく来ない間に富士山側がきれいに刈り払われており、その全容が眺められる様は、むしろ蛾ヶ岳よりすぐれているのではないかと思われた。縦走時は道なりに歩いていると通過してしまうピークだがもったいない話である。新緑の山のむこうに残雪の富士山がぬうっと立っている。ふだん富士山を見慣れた我々は不感症になっているが、これはかなり豪華な風景である。

昼には少し早かったので東に下って地藏峠まで行ってみることにする。大平山の東側は稜線が広くなってまるで山上庭園である。そこが若葉に覆われているのだから筆舌に尽くしがたいとはこのことである。Sさんがこの状態を留めておきたいねというがそのとおり、しかし季節が移ろうから余計に今の良さが際立つのでもあろう。

地藏峠で昼休みをしたのち折門峠に戻って往路を下った。旧い径は傾斜がうまくつけられているのも美点で、そのうえ地面が柔らかいのだから下りは実に楽だった。

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