御陵山(御所平

時ならぬインフルエンザ禍で次々に常連が倒れ、私自身も体調が悪い。ついに悪天以外で初めての木曜山行中止となるかと思われたが、人類史上最強の免疫力を誇るおとみ山が発病寸前で回復した。そして、咳が出ようが少々熱っぽくなろうがおかまいなく日々の体内アルコール消毒を果敢にも持続した私もやはり回復した。

となると、もともと山で病気は治そうという方針のふたりだから、それでは行きましょうとなったのである。しかし当初の予定の高川山は、東京方面から来ようという人もないし、長い運転はやはり病み上がりにはつらいということで地元でお茶を濁すことにした。

さてどこかいい山はないかと考えて、おとみ山が信濃川上は御陵山にはまだ登ったことがないと言っていたのを思い出した。ならばそれもいいだろう、馬越峠の車道はまだ冬の通行止めだろうが、車道を歩いてもたいしたことはない。

展望の山だから好天でないと楽しみは半減するが、それもまったく問題なかった。肝心の八ヶ岳はくっきり見え、遠くの山こそ霞みはするが、それは春なら仕方のないこと、その分気温は高く、1800mを越える山だというのに半そでで大丈夫なほどだった。

最初はオーソドックスなルートを往復するつもりだったが、車道を歩いているうちに南西尾根を登ることを思いついた。20年以上も前に下ったことがあったが、子細はむろん記憶にない。

これが白眉の尾根で、ところどころ展望の開ける岩場があるのは好ましく、途中のミズナラ林の雰囲気もすばらしい。尾根に取り付くまでには多少の足場の悪さがあるが、取り付いてしまえば刈り払いもしてあって、藪を分けるようなところもなかった。御陵山に登るならこれに限ると思った。

頂上で展望を楽しみながら小一時間を過ごし、帰りは一般的なルートを下ったが、稜線は灌木の枝がわずらわしいところもあったり、鉄塔巡視路の上部はほとんど廃道に近かったりで、以前より状態は悪くなっている。あまり人の訪れはないのだろう。

御陵山は古い地図では「御墓山」となっているが、なんとなく字面が良くないので改名したのだろうか。

この山の名前といい、「御所平」「臨幸峠」など、なにやら床しい地名がこの近辺にはあるが、その由来となった伝説については、下記のPDFが参考になる。

http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/BKSL060012.pdf?file_id=27510

この研究者の結論は、いわゆる「貴種流離譚」だということだが、まあ、歴史において真実は闇の中というのも悪くはない結論かと愚考する次第。

(出典は立正女子大学短期大学部文芸科文藝論叢. Vol.6, ,p.50- 57 出版年: 1970  )

杣口山(川浦)

今年になってからずっと好天続きだった木曜も、いよいよ周期が悪くなってきたのか今週は雨天の予報が出ていた。そこで早々に一日前倒することにしたが、都合のつく人は残念ながらいなかった。

誰もいなければ中止にするつもりだったが、毎年4月の最初の週には必ず甲府盆地周辺の山に出かけるのは、むろん甲府盆地がもっとも美しい時季だからで、今週を逃すと来年まで、あの春爛漫が楽しめないとあってはたとえひとりでも出かけることにした。今回の山は私は初めてで、自分のレパートリーにするために下見しておくのもいいとも思ったのである。

大久保峠南の1070m三角点は、かつては『川浦』図幅の山にはせっせと通ったのだから目にしていないはずはないのだが、大久保峠から北の稜線にばかり目がいって、その南にある山のことはすっかり忘れていた。木曜山行の計画を練るのに、盆地周辺にどこかにいい山は残っていないかと地形図をスクロールして眺めていて、この三角点にあらためて気づいたのであった。

点名が「五町」だから便宜的に「五町山」としていたが、ふと気づいて横山厚夫さんの本に載っている地図を見ると、ちゃんと「杣口山」と書いてある。なるほどとその名前で検索をかけると、いくつかは記録が出てきた。そこに松浦隆康さんの本にあると書いてあったので本棚から取り出すと、これもなるほど書いてある。読んだはずなのにすっかり忘れていた。山の西麓に杣口の地名があるが、そこから見ると立派な山容なのかもしれない。

しかし、それもこれも帰ってから気づいたことで、忘れていたおかげで前知識なく登ることができたのは幸いであった。こんな山は答えがわかっていると面白味が減る。こちらは自分で考えた作戦どおり、牧丘の道の駅を基点に馬蹄型に周回したわけだったが、これは想像以上にいいルートで、いい山だった。

尾根に巨大な岩がゴロゴロしているのはなかなかの奇観で、有名な山なら名所になっていることだろう。ヒノキの植林も多いが、道中の半分以上は好ましい雑木林で、特筆すべきは地面の柔らかいことだった。こればかりは行ってみないとわからない。まったくといっていいほど岩ゴロがなく、実に歩きやすい。尾根上に藪らしい藪もなかった。

行き帰りの甲府盆地は桃も桜も満開で、それを見るだけでも価値のある1日だった。この山には季節を変えてまた登りたいと思う。


大栃山(河口湖西部・石和)

順延したおかげで素晴らしい好天となった。甲府盆地の南の高みにある車道を通って登山口へ向かったのは、途中にある八代さくら公園からの桃源郷の俯瞰と、その彼方の白峰三山の眺めを期待したからだったが、桃の花は終わりに近く、しかし白峰はくっきりと青空に並んだ。鳥坂峠へと車道を上がると、高いところの桃畑ではまだまだ花は見ごろである。

大栃山には木曜山行で2度出かけているが、7年ぶりとなる。そのいずれもオーソドックスに檜峰神社まで車で入り、花鳥ノ杉へと長い尾根を下ったが、それと同じでは面白くないと、今回はあまり人の歩かない西側から鳶巣峠へ登ることにした。20年以上前に下ったことはあるが、むろん記憶はほとんどない。

水害で荒れたせいか、かつての峠道のままではなさそうだが、崩壊して少々足元に気を遣う部分があるものの、まずまずの径が峠まで通じていた。全般に檜の植林地で、その点では面白味はない。

明るい径となるのは鳶巣峠からで、登山道の周辺はかなり伐採されている。たどり着いた頂上も、富士山側と甲府盆地側が伐採されており、まるでかつての印象とは異なる展望の山頂になっていた。

昼になると展望はぼやけてくるものだが、昨日は不思議なことにだんだん良くなってきて、富士山はよりくっきりと、遠く北アルプスの峰々まで八ヶ岳の横に並んだ。

帰りは、しばらく花鳥ノ杉への尾根を下ったあと、支尾根をウッドストックゴルフ場に向かって下った。最後、ゴルフ場の外周を延々と歩いたのが長く感じられた。


猿焼山(都留)

相変わらず木曜あたりが悪天の周期で、いよいよ3週連続で木曜日に山へ行けないかと思われたが、直前の予報では降りだしは遅く、なんとか午前中くらいは降らずに済みそうな按配となってきた。金曜日に延期できれば好天のようだが、参加者の都合がつかないとあってはたとえ半日でも山を歩こうと出かけることにした。猿焼山なら短い歩程で済むから好都合だし、曇ってはいても、要は新緑が楽しめればいいのである。

猿焼山の名前を知ったのは、横山厚夫さんの『一日の山・中央線私の山旅』(実業之日本社)だったから、その本を購った30年の昔になる。以来、そこに載るほとんどの山は登ったのに、この山は訪れる機会のないまま残っていたひとつだった。

この2月号の『ワンダーフォーゲル』誌で、今年の干支が名前についた山を特集するので、猿焼山について教えてもらえないかと編集者から問い合わせがあった。登ったことがないから登路などについてはわからないが、九鬼山の東稜から撮った写真はあるからと提供し、それが誌面に載った。

それで猿焼山を思い出し、木曜山行の山選びにはいつも頭を悩ませているから、干支の山ならちょうどいいと計画に入れることにしたのだった。標高的に晩秋から新緑の頃までが適期だろうと、4月下旬の計画に入れた。学生時代を過ごした都留の街は、4月半ばから5月初めがもっとも素敵な時季だったのである。

午前中に終れるようにと早出をしたが、現地に着くと富士山は見えるし青空ものぞいていて、これなら降るにしても遅い時間だろうと思われた。今では昭文社の地図にも実線が入っている猿焼山は、それを登るなら往復3時間もかからないだろうから、最初そうしようと思っていたのだが、天気がもつようならそれでは面白くない。

そこで戸沢川から朝日川へ越す車道の途中から尾根に取り付くことにした。篠竹の藪を突破して尾根に上がると、そこそこの踏跡が続いていた。ときおり開ける展望と新緑を楽しみながら快調に歩く。右手の植林地から登山道が上がってきてからはさらに径は良くなった。城ヶ丸とある三角点峰を経て頂上に着いたのはまだ11時前、雨が降りだすにはまだまだ時間がありそうである。

そこで今倉山への尾根をたどって、途中から支尾根を戸沢川の源流へ下ることにした。ところが、ここで油断して方向を間違え、すこし紆余曲折があった。低い山ほど方向を定めるのは難しいところがある。

まあ、それでも最終的には考えたとおりの道筋で下ることができ、無事、月待ちの湯にドボンで大団円となった。湯上りに休憩室で過ごすころにはついに雨が降りだした。

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