水落観音(信濃田口

傾斜が緩くて長く延びた尾根を私は好む。佐久地方の千曲川以東の地形図を眺めていると、そんな尾根がいくらでも目につく。すなわち上信国境から千曲川流れ込む川(南から、南相木川、栗生川、相木川、親沢川、抜井川、谷川、雨川、滑津川)の両岸に連なっている尾根である。

それらの尾根には、西上州の地質の流れをくむのか岩場が多いので、一筋縄ではいきそうにはないが、まあ西上州ほど険しくもない。

日本で一番海から遠いという榊山に登ったとき、周辺の地形図を眺めていて、雨川右岸稜線の直下に水落観音という文字を見つけた。これはいつか行ってみたいと思っていたのを、今日の木曜山行の計画に入れてみたのだった。しかしお参りだけでは山登りにはならないので、その背後にある1235mの三角点(程久保)を目標にすることにした。

結果的にはここにお参りするだけでも満足できるような観音様で、その遺構から往時は相当な信仰を集めていたのだろうと想像された。観音様までの道にも十数体の丁目石を兼ねた石仏があって、そのほとんどは石の質のせいか風化が進んでいるが、それはそれで風情があった。

水落観音は岩から滴り落ちる水がその名前の由来だろう、閼伽流山に似たイメージがある。岩に藤がからみついているのも同じで、しかしここの藤は白花だとか。枝垂桜らしい古木が2本あった。果たして今でも花をつけるのだろうか。

水落観音の裏は絶壁で取り付く島もない。どこかに突破口はあるだろうと思っていたら果たしてあって、わりと簡単に稜線に出た。地形図からわかるとおりの広い稜線で、驚いたことにそこには林道が通じていた。しかも分岐がそこここにあって迷路のようだ。

地図にない林道には惑わされる。おそらくこのあたりに三角点があるだろうというところで探してみたが、結局わからずじまいだった。埋もれているのかもしれない。枝越しではあるものの、浅間山や荒船山を近くに見る稜線だった。

帰りは同じ道でも面白くないと、まず尾根づたいに下ることを考えたが、岩場にはばまれた。登り返して、いつのものとも知れぬ仕事道を下ることにした。しかしそれも途中でなくなってしまった。下に杉の植林が見えるので、そこまで下ればなんとなかなるだろうと強引に下り、無事、行きがけの道に合流することができた。

水落観音の藤の花期は5月半ばらしい。さぞや素晴らしいことだろう。

妙見山・差山(塩山・川浦)

旧牧丘町で造った鼓川温泉には、まだ八ヶ岳に移住してくる前にはよく行ったものである。その周辺の山に出かけることが多かったし、山中にある風呂の雰囲気も気に入っていたからだった。今からすると立ち寄り湯というものも少なかった。

3月の木曜山行で差山を思いついたとき、せっかくこの山に登るなら、帰りは鼓川温泉に浸かっていきたいと思った。なにせ登山口が温泉のすぐ脇にあるのだし、だいたいこの温泉が木曜定休なので、かれこれ15年以上も訪れることがなかったのである。だから今回、金曜日にずらしたのはただそれだけの理由だったのである。

残念ながら差山では名前に魅力がなかったのか、参加者はおとみ山だけで寂しい限りだったが、一日ずらしたことは功を奏して、遅ればせながら今年初めての新雪らしい新雪の山歩きを楽しめたのだった。

地形図の山名表記の妙見山が差山に変わったのはまだ最近のことで、以前の表記を見慣れていたからとまどったわけだったが、その妙見山ですら、小楢山の登り降りにわずかに頂上を通過するだけの山だったのだから、それが差山になって、さらに知名度は落ちたわけである。むろんこの山を単独で目指すなんてことは皆無に近いが、冬の日帰りの山登りとしてはこのくらいが我々の能力に応分だろうと考えたのであった。

大沢山から下ってくるならまだしも、鼓川温泉からは取り付きがやや難しく、昨日は雪のためにさらに難しくなっていた。まあ、それでも登りは何とかなる。差山までたどり着いたら、帰りは足跡が残っていて確実な往路を戻ろうかと最初は思っていたが、登るには大丈夫でも下るには雪があると大変なところが何箇所かあるので、それに気を遣うよりは、すぐ北側で稜線をまたいでいる林道まで下って、生捕への破線路を下るほうがいいと考えなおした。それにしても差山から北にはわずかながら鎖のかかった岩場があって、雪がなければどうということもないところだが、少々苦労させられることになった。

一次の峠とある林道出合から生捕に下るのは初めてだったが、これは地形図を見れば、傾斜のゆるい浅い沢筋を下って廃れた林道に出れば、それをたどればいいだけで、こちらは雪のおかげでむしろ楽に下れたのであった。

下山後そのまま温泉へドボンというのはやはり気持ちがいい。平日のわりには混んでいたのは、地元農家が雪で作業は休みで、温泉へと繰り出していたからだろう。駐車場には軽トラックが多かった。


霧訪山〜大芝山(北小野)

霧訪山の名前を知ったのは、山村正光さんの『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)でだったから、もう30年前のことになる。

山村さんは『中央本線各駅登山』(山と溪谷社)でもこの山を取り上げていて、この本が94年の出版だから、おそらくそのあたりから地元での整備が始まったのだろう。頂上の展望盤や新しい祠に彫られた年月日がそれを物語っている。そして2001年に出た『東京周辺の山350』(山と溪谷社)では寺田政晴さんがこの山を紹介している。

短時間で登れ、その位置から展望は申し分ないのだから人気が出るはずである。頂上の翁草をはじめ、周辺には花が豊富なことも知れ渡ったらしく、今ではこの手の山としては有名山のひとつといえるかもしれない。霧訪山とは当て字ではあろうが、ロマンチックな字面も人気に一役買っているだろう。

私が初めて登ったのは八ヶ岳に移住してきてからで、14年前のことになる。その後木曜山行でも登ったし、長田温泉に飯を食べに行くのに腹を減らすための山として登ったこともある。http://yamatabi.info/tawara-20070502 それもすでに10年近く前のことになった。

一般的な登山道を往復するだけでは面白くないので、頂上から南に下って、尾根を違えて戻ったりもしたが、それでもちょっと行程が短すぎる。そこで今回は大芝山を経て善知鳥峠へ下ってみることにした。

東京からは鉄人M夫妻も合流し、最近にはないにぎやかな木曜山行となった。そして、遠路出かけた甲斐のあるとにかく絶好の霧訪山日和、展望の山の面目を100パーセント施したといってもよかった。見えるべきものはすべて見える無風快晴の頂上で、1時間半を過ごした。

大芝山へも今や道標完備だったが、登山道には先般の雪がまだまだ残っていた。登山道の雰囲気は小野からのそれに比べると格段に好ましい。帰ってから調べると、塩尻市の沢奥からの周回コースが設定できるらしい。大芝山まではあった先行者の踏跡はそちらへと向かい、降雪後に善知鳥峠へ下る人はなかったらしく、そこからは、場所によっては膝までもぐる雪に足跡をつけていった。地形図に破線のある尾根のひとつ南側の尾根に径は通じており、やがて三州街道の善知鳥峠を行きかう車の音が大きくなってきた。


霧沢の頭(谷戸

信州峠から西へ延びる甲信県境は、現在丸山と呼ばれている頂上の東端で南に屈曲し、1508m標高点で今度は西へと曲がる。原全教によると、丸山は三澤の頭で、標高点1508mの北側の突起を霧山もしくは霧沢の頭と呼ぶという。等高線から1530m台の高さだとわかる。須玉町の小尾から北西に入る沢が霧沢であろう。

この1508mで県境と分かれて南へ延びる稜線が津金山地となるのである。今でこそ横尾山から飯盛山へと縦走する人も増えたが、丸山から南へと県境稜線をたどる人はめったにはいない。踏跡も、ことに丸山直下はないに等しい。

6年前、名古屋のNさんとこの県境稜線を忠実にたどってみようと出かけた際、霧沢の頭を通過したはずだが、まるで印象がないのは、これといった特徴のないピークだったからだろう。

昨日の木曜山行で目標としたのは霧沢の頭の南の三角点峰だから霧沢の頭ではないが、まあ、さほど離れているわけでもないし、似たような標高だからその名前を使わせてもらった。ちなみに三角点名は「長原」である。

車で林道を登れば、ほんの15分歩くだけで済んでしまうピークで、随分前にその方法でピークを踏んだことがあるが、ほとんど忘れてしまった。しかしそれでは山登りとはいえない。そこで、林道が閉鎖中に登ってみることにしたのである。それにしても体力的には大したことはない。

めずらしく1月中にひとりで下見登山をしておいたので、地図を読む手間もない。行き帰りとも下見のときとは少々方法を変えて登ってみた。

頂稜に出ると八ヶ岳と金峰瑞牆を左右振り分けに見ながら進む。狭い頂上で休むうちには冷気が降りてきて一気に寒くなった。下る途中にある岩は、この山域随一の八ヶ岳展望台である。少し前にはかかっていた雪雲も取れ、八ヶ岳はほぼすっきりと見ることができたのは幸いだった。

昨日の山へは久しぶりに私の家族も参加した。娘がこの4月から進学で東京に住むことになるので、もう滅多に山へ一緒に行く機会もなくなるだろうからである。そして早めに山から下ったあとは、木曜山行参加者の皆様が娘の壮行会をしてくださった。ありがたいことである。

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