斑山麓で新年会(若神子)

木曜山行新年会は年末から滞在中の3女史におとみ山が加わった。晴れて山々がすべて望めるのはいいのだが、寒風吹きすさぶといった天候である。あらかじめ予定していた座敷は感じがいい場所だが風が吹き抜けそうな尾根筋にあるので、一段下がった、かつては栗の畑だったらしい場所を宴会場に決めた。

上空でかなりの風の音がしているのに、不思議とまったくそよとも風が吹かず、南から陽もさんさんと注いで、上出来の座敷であった。乾杯して鍋をつつき、今年一年の山の日の好天と無事故を祈りつつ昼のひとときを過ごした。

御嶽参道南部を歩く(甲府北部)

御嶽参道南部を歩いてみようと昨年2度計画したが、いずれも天候のせいで流れた。したがってこれが三度目の正直となるわけだが、新年最初の山にふさわしい好天となった。

御嶽金桜神社への参道は、今では昇仙峡沿いのものだけが有名だが、これは新道で(昇仙峡という名称はさらに新しい)、その険しさからいって開削には新しい技術が必要だっただろうし、できてしまえば観光的見地から言っても、もっとも人気の参道となって、それにしたがって吉沢からの外道は廃れていったのだと思う。

『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』という本が2008年に山梨県立博物館から発行されている。この本によると、「外道ノ原」というのは、後の北仙開拓で、そして今回の木曜山行で歩いた亀沢川左岸稜線が外道(下道)に対して上道と呼ばれ、れっきとした御嶽参道だったことがわかる。一方、外道は帰りにたどった稜線ではなく、今の地形図にも破線の入っている吉沢川沿いだったらしい(外道ノ原までほぼ車道になっている)。もっとも、尾根伝いにも径はあったのではと思われる記述もある。

この上道は太刀の抜き岩付近で吉沢からの外道と合流する。今の地形図にも破線は入っているが、途中倒木もひどく、好事家向きである。集落からさほど遠くない稜線だから、かつては畑があったのだろう、いたるところに石垣が残っている。

大展望を眺めながら昼休みしようと、最初の計画にはなかった白山まで足を延ばし、帰りは吉沢への稜線をほぼ末端までたどったが、外道ヶ原を過ぎたら再び藪尾根である。冬の好日、枝越しに白い山を眺めながら歩ける、底抜けに明るい甲州の低山歩きの醍醐味はこんな尾根道にこそある。そのうえ、この踏跡すら明滅する尾根にかつては御嶽へと多くの老若男女が杖をひいたことを想像すると、さらに情趣が加わるというものである。

信玄棒テラス・羅漢寺山塊(甲府北部)

雪の予報に早々と順延とした木曜山行だった。雪はさほどの量は降らなかったが、しかしこの季節にしては湿った雪で、むしろ金曜朝の路面の凍結のほうが心配された。そこで、何も無理をして早朝に勝沼くんだりまで出かけることもあるまいと、今週は残念ながら中止にすることにして前夜にはその旨参加予定だったおとみ山に連絡した。

明けて晴天の朝になった。白く氷に覆われた木々が青空に映えて美しい。それを見たらこんな日に山に行かず家に籠っているのがいかにももったいなく思えてきた。そこで少々遅い出発でも行けそうな山に目標を変えて出かけようかとおとみ山を誘ったら、珍しくまだ予定が入っておらず快諾を得た。

出かけるのはやはり羅漢寺山塊、まだ誰とも登っていない信玄棒である。そこに至るのに確かめたいルートがあるというこちらの希望もあった。

遅い出発だったとはいえ、昇仙峡への道に入ると日蔭はまだ完全に凍ったままだった。こんなときにわざわざ出かける人は少ないから行き交う車はほとんどない。駐車場にも観光客の車は一台もなかった。

登り着いた信玄棒テラスにはもちろん誰もいない。白砂青松、巧まざる自然の庭園である。しかもこの展望。風もなく気温も高いのでいつまでも立ち去り難い。長い時間をそこで過ごした。

無事に登りはしたが、登る途中、肝心なところでルートミスをしていたことに下山中に気づいた。なんともお粗末な話で、なんでそんなミスをしたのか自分でも不思議だった。

帰ってから古い地図で調べると登ったルートには破線が入っていた。かつてはははっきりした径だったのだろう。もはや径といえるようなものではなかったが、ふだんそういったところばかり歩いているので疑問も持たずに入ってしまったのだろう。登りはじめてしばらくするとかなり規模の大きい石垣も残っていたので、そこには何らかの建物もあったのだろう。まあ、怪我の功名で古い径を歩くことができたともいえる。

雪にすべりながら無理やり登ったようなルートを下るのはより大変だから、帰りは遠回りになろうとも車道を歩くことにした。その途次千田を通ることになるが、これが幸いして、たまたま家の外に出ていた人に話を聞くことができた。

去年の暮に登ったときに出会った人に尖がり岩の名称を聞き、千田では信玄棒と呼んでいると教えてもらったが、実際に住人に聞きたいと思っていたのである。聞けばその通りだった。千田では信玄棒と呼ぶが、他でローソク岩と書かれているのを見たことがあるとも。しかしその麓でそう呼ぶなら信玄棒を正式としてよかろうと思う。

千田にはかつて14軒あったが、今住んでいるのは4軒のみ、そのうちの3軒が一人暮らしだそうだ。

武田神社〜東山〜八人山(甲府北部・甲府)

『車窓の山旅・中央線から見える山』で山村正光さんがこの山について、持ち主が8人いたから「八人山」だが、今では4人になっているから「四人山」だと書いている。ともあれ地主がいる山だから勝手に入山しては不法侵入ということになるのだろうが、人の山であることを知らずに歩いていることはけっこうあるのだろうと思う。

ともあれ、25年も前に名前を知って、しかも毎度近くを通りかかる山なのに登ったことはなかった。そこでおととしの計画に入れたことがあったが、都合で変更してしまった。

それは、この山だけを酒折から登るのではあまりにも行程が短すぎるので、積翠寺から岩堂峠を経て八人山を越えて酒折に下るという計画で、今回もそうするつもりだった。しかし、積翠寺から岩堂峠へはあまりにも何度も歩いているので、今回は、今まで下ったことしかなかった、武田神社から東山に続く尾根を登ることにした。

これがのっけからつまづいた。尾根の取り付きまでは遊歩道が通じているのだが、竜華池の水路工事でそれが通行できず、最初から竹藪を漕ぐ羽目になった。

そのうえ、大日影山への防火線に入ると、落ち葉の下の地面が半分融けた状態ですこぶるすべるのにてこずることになった。それでもまだ登りだから良かったのだが、結局、八人山への下りでもこの地面の悪さには苦しめられることになった。さらには、八人山へはところどころ岩ゴロだらけの部分があって、足元には終始気を使った。地面の状態で足の疲れはまったくちがう。

八人山からは不老園に出るはずが、ごく古い踏跡を再び竹藪を漕ぎながら下っていったら西に寄りすぎて、ブドウ棚の斜面の上に出てしまった。不老園からはもう少し楽な径があるらしい。しかしそのおかげで、いつのものかもわからない古い石積みにお宮があるのを見ることができた。もっともお宮自体は新しいものに思えた。

八人山の稜線は登るのはともかく、下るのはかなりの熟達者向きであろう。甲府の北山は街の裏山にしては樹林の雰囲気がいいのが特徴だから、地面の状態が安定している春秋のほうが楽しめるかもしれない。

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