烏帽子岳(若神子)

「烏帽子岳といっても名前を知っていたわけではなかった。たまたま昨日登った山の頂上にそう書かれた板切れがぶら下がっていたのである。

金ヶ岳の登山道が通じる南西尾根の1600m地点から西に長く延びる尾根があって、その途中に1339mの標高点のある盛り上がりがある。背後に大きな山体があるので普段はカモフラージュされて目立たないが、天候の具合で後の山が半分霧に煙っているときなど、おっ、あの山は何だろうと思うことがある。国道141号の須玉インター付近を通るとき、よく注意して見るとわかる。以前から気にはなっていた」

この5月に掲示板に書いたのが上記の文章だった。今週の計画は八子ヶ峰だったが、参加するのは、もう今さら八子ヶ峰にこだわることもあるまいという人ばかりなので、どこか他に面白そうなところに変更しようと考えていて、この烏帽子岳を思いついた。

結果的には変更して正解で、風が強く寒い日だったから、八子ヶ峰に登っていたらひどい目にあっていたことだろう。

茅ヶ岳はの広い裾野は古くから人々に利用されてきたのであろう。歩いていると多くの踏跡や作業道にぶつかる。大岩がゴロゴロした斜面もあっておもしろい。頂上直下で真西からビニール紐の目印が続いている。頂上にあった山名板の裏に、麓の仁田平有志と書かれていたから、その人たちが登ったときにでもつけたのだろう。

この山が山らしい格好をしているのは真西から見るときだけで、仁田平はその位置にある。なるほど烏帽子型ではあるが、それにしても烏帽子山くらいがせいぜいで「岳」とはおおげさであろう。

静かな山頂の風を避けた陽だまりでゆっくり休んだ。甲府盆地側が少し切り開いてあるがさほどの展望でもない。しかし静けさこそ価値がある。頂上のみ檜が何本もあるのはわざと植えたのだろうか。なにやら荘厳な感じのする頂上である。

朝方、麓の広場にえらく沢山の車が停まっていて、いったい何の騒ぎだろうと思っていたが、帰りがけによく見ると発掘作業をしているらしい。それでしばしその見学をした。土の中に土器のかけらがいくつもある。

縄文弥生の遺跡だというが、その時代の住人もここからの雄大な山岳景観だけは同じものを見ていたことだろう。

高畑山〜倉岳山(上野原・大室山) 

木曜山行を始めたのは2004年の正月のことだった。前年から毎週水曜日に山行を企画していたのだったが、山梨県の山のガイドブックを担当することが決まり、それならば週一回の計画にして人を募集し、ちゃっかり取材も兼ねてしまおうとしたのである。これが今に至る木曜山行の始まりであった。

その第一回目が高畑山と倉岳山で、つまり昨日の木曜山行は10年ぶりに前回をなぞる再訪となったのである。

たまたまTさんのリクエストがあったので、9月に計画は決めてあったのだが、『山と渓谷』11月号にこのコースを書くことになったのは偶然だった。しかし10年もたてば記憶も薄れているし、書くにも少々気が引けたのも確かだった。

その後ガイドブックの増刷が決まったので、私にとってはちょうどいい取材を兼ねた再訪となった。

笹子以東の中央沿線の山は駅から歩いていけるところに妙味もあるのだが、車で登山口横付けに慣れっこになっている我々は、登山口まで30分の車道歩きがあるというだけで、タクシーを使おうと言い出すのだから困ったもので、田舎者ほど歩かないという法則を証明することになった。

ぎりぎり1台には乗り切れない人数だったので、駅前のタクシーを横目に見てきっぱりと甲州街道に繰り出す。

車どおりが多くて歩道の狭い国道は閉口だが、田舎道に入ればぶらぶら歩くのも悪くない。人気の山域だけに迷いやすい里道も迷わずに登山口まで歩き着ける。

穴路峠分岐からの登山道はなかなかの雰囲気で、それはもちろん樹林の良さによる。高畑山から倉岳山への稜線も好ましく、都会から近いこともあろうが、人気がある山域なのもわかる。

高地に住んでいる我々は標高でこのあたりの山を馬鹿にしがちであるがとんでもない錯覚で、しっかりしぼられて高畑山に着いた。風もなく暖かい。ぼんやりと浮かぶ冬富士を見ながら長い昼休みとなった。

高畑山の三角点は10年たってすっかり成長しており、この調子では次にこの山に来るときには背丈くらいにはなっているだろう。

師走の山は静かである。ほとんど人に出会わないまま、倉岳山を越えて立野峠から梁川駅に下った。


淵ヶ沢山(長坂上条)

横山夫妻に神奈川から初参加のおふたりが加わって、昨今では珍しい定員一杯での木曜山行となった。

冬型が強まって、南アルプスや八ヶ岳は雲に隠れ、一方富士山方面はすっきりと晴れている。淵ヶ沢山の高さでは幸い雪雲もかからず、風もなくあたたかい。

馬蹄型に周遊するために、普段なら車で上がるところを下から歩く。しかしここにも古い径が残っている。かつては山がもっと利用されていたのだろう。林道が通じている今では1年でひとりも歩かないかもしれない径である。

昼前には頂上に着き、静かな山がひとしきりにぎやかになった。最近ダイエットに精を出している私のためにTさんがオカラで造ったケーキを焼いてきてくれ、山歩大介さんは全員分のコーヒーをポットに入れて背負い上げてくれた。

それらをいただきながら、10人もいれば話題が尽きることもない。予報どおり午後になって風が出てきたのを潮時に下山となった。山の北側を下ると一気に寒くなった。

長い尾根はひたすら落ち葉のラッセルである。最後は径形もない急斜面を下って、古い作業道をたどり車に戻った。

深草観音 (甲府北部)

今年の春先に歩いてなかなかいいところだと思ったので計画した深草山だったが、木曜日の悪天に昨日に順延して、しかし予報とは裏腹の荒れた天気に途中で引き返すことになった。

前回初めてこの頂上を踏んだとき、下記のようにこの掲示板に書いた。

《『甲斐国志』に「深草山」という名前が登場するが、山村正光さんは『中央線各駅登山』(山と溪谷社)の中で現在の「鹿穴」がそれではないかと書いている。「鹿穴」という名前は三角点名そのものである。明治時代の測量士がどういう理由でそう命名したかは不明だが、文字通りの即物的な発想ではなかったかと想像される。さほど目立つわけでもないこのピークに三角点が置かれたのは測量の便宜そのもので、三等点ともなれば付近でもっとも高く目立つピークに置かれたわけではもうなかったろう。

つまり『甲斐国志』の「深草山」は現在の「鹿穴」ではないだろうというのが私の意見である。「深草山」は頂上を指すのではなく山域であるのかもしれないが、もし現代的にその最高点を名前の代表とするならば1042m峰がもっとも妥当だろうと思う。

もともと「深草」という地名は岩堂峠の東側、今の行政区分では笛吹市側を指す。深草の詰めにあたるのが1042m峰で、それを深草山と呼ぶのはきわめて妥当であろう。深草観音の本尊を祀る、岩堂峠への上積翠寺側の入口にある瑞岩寺はかつてはその深草の地にあったという。山号が深草山というのはその理由でもあろう。》

結局のところ「深草山」という名前は私の想像から名づけたので、世間に流通しているわけではないが、まあ、我ながら妥当な考え方だとは思っている。

それはさておき、天気は好転するとの予報があったので、ぽつぽつ降る中を出発したのだが、歩くうちには傘がいるほどの雨脚となった。岩堂峠への径では面白くないのでかつての径をさがしつつ登るつもりでいたのだが、これではどうしようもない。そこですなおに岩堂峠を目指すことにした。

深草観音には小屋があるのでそこで早い昼休みにして天候の回復を待つことにしたが、雨は雪に変わり、あっという間に辺りは真っ白になってしまった。こんな天気にわざわざ登る山でもないので、深草観音にお参りして今回は終りにましょう、また新緑のころにでも再訪しようじゃないですかと、引き返すことにした。

     
 中山と納会 (長坂上条)

木曜山行今年の納会の山は最後まで決まらなかったが、諸事情考慮の上、中山と決めた。この山は2008年の納会で登ったことがあったが、中山峠から東への一般道の縦走だった。それと同じでは芸がない。芸こそが命の木曜山行の納会の山らしく、北側の麓から、めったに人が入りそうにない尾根を登るルートを設定した。

久しぶりの大快晴で、冬は雲のかかることの多い八ヶ岳もくっきりと青空に白い峰々を並べた。地元の山だから遅い出発であったが、それでもまったく雲は見当たらない。台ヶ原宿の、釜無川を隔てた対岸の桜公園から出発したのは7人であった。

地図にない林道が交錯するがさほど難しいわけでもない。いったん尾根をとらえれば、あとはそれをただ登るのみ。頂稜近く、石の祠や文化四年と彫られた御神燈の残骸があって、この尾根にも昔は人の往来があったことを偲ばせる。今、これらの石造物を見る人が年間何人いるだろうか。

頂稜に出るとわずかで山に不似合いな展望台の建つ頂上であった。三角点よりここが少し高い。ここはかつての白州町に属するが、建てられた当時はよほど予算があったのであろう。

せっかく建てられた展望台だがまわりの赤松が伸びすぎて眺めはあまりない。頂上付近を広く伐採して草地にでもすれば、この展望台を造った数百分の一の予算でもっとすばらしい展望の山となるだろう。この山には中世の山城があったと三角点ピークにある看板にあるが、当然その機能からして四方八方に展望が開けた山であったことだろう。枝越しに見える山々の豪華さを思うと、もったいない話である。

ともあれ誰もいないことをいいことに展望台の最上階を占領して昼休みとしたが、写真をみるとまるで浮浪罪で収監されている囚人のように見えますな。ま、似たようなものか。

保釈されて牢屋から出た後、三角点から北東に延びる尾根を下ったが、これは旧白州町と旧武川村の町村界尾根である。この展望台が出来たときにでも整備されたらしくその名残がある。

快適に下って車に戻り、ロッジで今年一年の写真を見ながら時間をつぶし、夕方から、山に行った7人に4人が加わって近所の料理屋を貸し切っての大納会となった。楽しくにぎやかに夜は更けていったのは言うまでもない。

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