御坂山(河口湖東部)

今年に入ってから厳しい寒さが続き、天気は良くとも山中でのんびりすることはできなかったが、昨日の御坂山ではそれを補って余りあるくらいのんびりできたのであった。

御坂峠の河口湖側の峠道は1度しか歩いたことがなかった。20年近くもすぐそばで仕事をしていたのだが、案外そういうものだと思う。

どういうわけかそのときの印象はあまりいいものではなく、御坂峠に登るなら籐ノ木側に限るといつでも紹介していた。風景はすなわち心象だから、きっとそのときの気分の在りように原因があったのだろう。

確かに樹林のしっとりとした雰囲気は北側が勝り、しかも峠に出て初めて富士山が登場する演出もすぐれている。だが今回、葉の落ち切った明るいミズナラ林を、樹林越しの富士山を眺めながら登って不明を恥じることになった。この明るさはとにかくすばらしい。

御坂の山に登るなら、湖畔に住まうW女史をお誘いするのは恒例である。幸いご都合がついて河口湖で合流、新御坂トンネルの脇から峠道に入ろうとするとき、先行しかけていた単独行者が戻ってきた。

「長沢さんではありませんか」

「ロッジ山旅」の屋号が入った車を見て気づいたらしい。『山の本』で私の文章をお読みになっているという。部数の多い本ではないが、まれにこういった邂逅もないわけではない。しかしおもしろいのは、この方がつい先日、坂本桂さんの本のことで電話でロッジに問いあわせをしてきた人だったこと。それがこんなところで偶然出くわそうとは。

「へー」とこちらが驚けば、「はあー」とそのKさんも驚いている。数十秒時間が食い違えば、たとえ山中で会ってもお互いを知らぬままである。私をご存知ならWさんを知らないはずはなく、紹介したらKさんは再び「ふー」と驚いた。

黒岳へ登るはずだったKさんは、結局我々と御坂山に登ることになった。これもご縁というものだろう。

ともあれ、御坂の樹林の良さを存分に味わった山歩きとなった。稜線にでると、ブナやミズナラもさることながら、肌の美しいナツツバキが多いことに驚かされた。この稜線は何度となく歩いているというのに、いったい何を見ていたのだろう。

稜線からは遠く北アルプスまで展望を楽しむことができ、誰もいない御坂山の頂上で長い昼休みをした。

早めに下ったのでWさんの家でお茶をご馳走になった。話しているうちに、近所の河口湖美術館で富士山写真大賞展が開催中だったことを思い出した。Wさんが、町民優待の割り当てがあって、全員無料で観られるというのでありがたく使わせてもらうことになった。

富士、富士、富士、絵も写真も富士山だらけである。昨日は朝から夕方まで富士山まみれの1日となった。

大蔵経寺〜大蔵経寺山〜長谷寺(石和・塩山・甲府北部)

大蔵経寺山こそ山梨百名山に選ばれてから出世した山で、山の選択に政治が関わると、いくらでも他に山があるというのに、こんな山が選ばれてしまうという典型である。

採石場跡の擁壁ばかりが目立つ低山に登ろうとする人は少なく、それなりに藪に苦しめられたが、それもすでに昔の話となった。

だが、この山にだけ登ったのでは失望するのがオチだから、要害山から縦走して半日の山歩きとしたのが私のガイドブックに載せたプランだった。当初、鹿穴南の分岐点が地図読みに長けてない者には難しかろうと、難易度を上げておいた。

そこにいずれここにも道標ができることだろうと書いておいたのが、去年久しぶりに歩いたときには実現していた。私のガイドブックが影響したのかどうかはわからないが、少なくともこの山稜を歩く人が増え、行政が対策をしたのは間違いないだろう。

この道標のおかげで一気に誰でも歩けるコースとなったわけである。そこで今年初めに出た版ではこの項を大幅に書き換えることになった。鹿穴分岐の道標のみならず、大蔵経寺山の北西から東麓の長谷寺(ちょうこくじ)へ下る道標が新しくできているのも見た。これは1度歩いてみなければなるまいと思ったのが昨日の木曜山行の計画になった。

大蔵経寺から歩き出し長谷寺に下るという、なんだかお遍路さんのような山歩きとなってしまったが、誰にも会うこともなく、白峰や富士の眺めを楽しみながら歩くことができた。自然石を利用した長谷寺の参道は一見の価値がある。

甲府の北山は、南側に大きな盆地を持つせいか、明るいのが美点である。それには広葉樹が多いことも影響しているだろう。ゆえに4月新緑の山歩きには最適である。その時季にこの山稜を上下して楽しくなかったら、そもそも自分に向いていない遊びだと諦め、他の楽しみを探すのがよろしかろう。

泉海道山(谷戸)

今日はスノーシュー山行の計画だったが、雪の降り具合で山は決定することにしていたら、やっと地元でも遊べるくらいの雪が積もった。近所の山で事が済むなら、わざわざ遠くまで出かける必要はない。近所の山でスノーシューをするのは、2008年の兎藪以来となるのだから、スノーシューができるほどの積雪が2年もなかったことになる。

しかし地元なら地元で、山をたくさん知りすぎていて選ぶのに迷う。悩んだ結果、午後から天気が崩れるという予報を勘案し、時間があまりかからない泉海道山にした。

泉海道といっても誰も知らないが、クリスタルライン(高須林道)を樫山峠から西に下ってきたとき、八ヶ岳の手前に重なっている山である。地元では「高畑(畠?)山」というと聞いたが、山中の三角点が「泉海道」という名前なので、そちらが格好いいと思って私は使っている。「泉海道」は「逸見街道」とも書けると思えば、なかなか面白い推理も成り立ちそうな名前であるが、探究心が薄いのでそれ以上考えないのである。

この山を南から北まで縦走することにした。地図をみるとわかるが、途中で甲信国境をまたぐ。今日は途中で終わりだが、そのままこの稜線を北上するといずれ飯盛山へ達する。飯盛山に登るもっとも美しいルートだと私は思う。ハイキングの飯盛山も、こうやって登ればいっぱしの藪山歩きになる。

地元の強みで遅い出発となったというのに、はやくも13時には下山して、14時には温泉に入っていた。まあしかし、まだ誰も踏んでいない雪を蹴散らして歩くという、木曜山行ならではの山歩きの醍醐味は充分に味わった。

文台山(都留)

文台山は私の母校である都留文科大学の裏山である。地元では母校を文大というから、それで文台山となったのかと思えばさにあらず、仏躰が語源だと聞いた。御正体山の尾根続きに盛り上がった山だから、宗教がからんでいるのだろう。

しかしこの山が文台山なんて名前だと知ったのは卒業後で、私たちはもっぱらケツ山と呼んでいた。理由は山容を見ればすぐわかる。初めて登ったのも卒業後で、在学中、私は裏山はおろか山にすら興味を失って、もっぱら下界で昼夜が逆転した世にも怠惰な日々を過ごしていた。

前回登ったのは、同窓の渡辺玉枝さんがこの山にはまだ登っていないというので、じゃあ、ささやかながらこの頂上で植村直己賞の受賞祝いをしましょうと登ったときだから、もう6年前である。


登るにつれて現れた雪の上には踏んだ形跡はない。雪が降ってからかなりたつのに誰も登っていないとは珍しい。再び忘れられた山に戻ったのかもしれない。それはそれで悪くはない。

すでにかなり融けた薄い雪だが、その上はすべり、それを避けて落葉や土の上を歩こうとすると、それがまたすべる。急峻な山なので、登り降りとも苦しめられた。

今回は尾崎山へ行かず、その手前のピークから大学の裏へ降るルートをとった。同好の士がいるらしく、踏跡もあったし、お決まりのテープもところどころにあった。傾斜がゆるむと遊歩道と書かれた看板が現れ、それにしたがって降ると大学裏手の車道へ出た。私の在学中にはまったくなかった車道である。

春休み中の大学には学生はまばらである。久しぶりに学生食堂をのぞくと、その半分を使って、生協が新入生用に家財道具の販売をしていた。ああ、そんなこともあった。高校の制服を着た女の子が親らしき人と商品を眺めていた。外に出ると、ケツ山が、私のいた頃と何も変わらず大学の校舎の上に頭を出していた。

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