4. 倉骨、槍 2001(平成13)年7月17日
丹羽彰一さんは1930年のお生まれで、私よりも3才の年上である。中学へ入ってすぐに旧日本陸軍の幼年学校へ移ったというから、世が世ならば、その後は士官学校、陸軍大学に進み、果ては連隊長ぐらいまでにはなっていたかもしれないのである。ところが、残念なことには幼年学校に入って間もなく日本の国は戦争に負けて、並みの中学に逆戻り。一ツ橋大学卒業後は、これも並みの勤め人になった。しかし、末は勤め人としてはW位人臣を極めた地位Wにまで昇りつめたというから、まぁ、それもよかったのではないかしら。 山登りは子育ての終ったころから始めて、まったくの自己流ながら藪山を好んで登るようになった。その記録を私家本『雲と水と』にまとめ、大学の先輩になる望月達夫さんに贈ったところ、望月さんから「君と同じような山登りをしている人がいるよ」と、その本を私に見せてくれたことから交友が始った。 お家は中央線沿線の国立にあって、私の家とも、そうは遠くない。国立で丹羽さんの車に拾ってもらって山に行ったことも何回かあった。この時も丹羽さんの車に便乗しての山行で、ロッジには二晩泊まり、中の一日に長沢さんの先導で倉骨と槍に登りにいった。倉骨、槍とは、何処にある山かと尋ねられれば2.5万図「御所平」「八ヶ岳東部」「瑞檣山」「谷戸」4枚の境にあって1700b台の山というより突起といったほうがふさわしい小峰(補記3に長沢氏の詳しい説明がある)である。 丹羽さんは2012年12月に82才で亡くなった。悔しいの一言しかない。今もこうして丹羽さんの写っている写真を見れば、その思いはつのるばかりである。「丹羽さん、ご一緒した山の日いつも楽しかったですね。この倉骨、槍に登った日は強烈な陽射しが照りつけ、なにしろ暑かったし、八ヶ岳の夏姿が実に素晴らしかったですね」。 2. 丹羽さんの著書には『雲と水と』全3巻、それに白山書房出版の『残照の山々』(2007年)がある。また、かつての山岳誌『ビスターリ』(山と溪谷社)連載の「エグゼクティブは山歩きがお好き・5」(1990年夏号)に「日本航空電子工業株式会社取締役」の肩書きで丹羽さんが載っている。 |
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