35. 釈迦ヶ岳      2007(平成19)年11月21日

釈迦ヶ岳1641bには2度登っている。最初は1977年12月の中旬、望月達夫さん、大森久雄さんにこちら二人の1泊2日の山旅だった。石和(タクシー)大窪‐鶯宿峠‐春日山‐鳥坂峠‐芦川(民宿泊)‐釈迦ヶ岳‐黒岳‐御坂峠‐三ッ峠登山口(バス)石和、という行程で、この時の詳しくは『静かなる山』に載せている。

その後30年の年月を経ての2度目の釈迦ヶ岳登山が、ここに載せる3枚の写真。この日は当ロッジご主人の車に、遠路仙台からお出かけの五十嵐さんとこちら二人が乗せてもらっての登山だった。釈迦ヶ岳と黒岳の間を越すすずらん峠1430bまで車であがれば、標高差は200bほどの至極楽な往復である。よく晴れた日で、富士山をはじめとする四方の眺めは抜群。芦川の谷を挟んだ御坂山脈の一段低くなった向こうに、僅かながら一線光るところがあった。長沢さんが双眼鏡で見たところ「あれは海です、大きな船が動いていきます」。おそらく駿河湾の海面が光っていたのに違いない。また、前にはなかった指導標や山名指示盤などもあって、登る人が多くなってきたことをうかがわせた。初回のときは「尾根には踏み跡ぐらいはあるだろう」、芦川の谷から尾根に取り付くのにも「踏み跡が上にあがっている。多分、これを行けばよさそうだよ」程度だし、山頂には2体の小さな石仏のほかは、木に打ち付けた山名を記す板切れ一枚、ケルンがあるだけの、あとはなにもないさっぱりしたものだった。本項モノクロ写真・その1「釈迦ヶ岳」参照。
補記

1. 『静かなる山』(川崎精雄、望月達夫、山田哲郎、中西章、横山厚夫共著/茗溪堂)の出版は1978年7月、すでに40年も昔のことになる。この本を作ることが決まった時、1つの山をB5判変形の見開き2ページ、字数にして本文2100字(400字詰め原稿用紙5枚と100字)として、どのくらいのことが書けるものか、まず試しに書いてみることになった。そこで「僕がやってみます」と書いたのが、その前年の12月に登ってきたばかりの釈迦ヶ岳だった。それを川崎さんと望月さんにご覧に入れると、「まぁ、これならなんとなるだろう」。そして、できるだけ、(当時としては)人に知られていない山にしようというのが、なによりの趣旨だった。

2. 『静かなる山』は最初3000部刷った。「茗溪堂の本にしてはよく売れています」と社長の坂本矩祥さんが気をよくして「重版しましょう」と、さらに3000部。しかし、後日、「こちらは大分残りました」と、坂本さんは前のようなよい顔はなさらなかった。よって、1980年11月出版の『続 静かなる山』(著者は前著と同じ5人)は初版5000部のみで終わっている。しかし、年とともに両書とも少しずつながら売れて、最後には完売したと聞いている。ちなみに、今、ネットで『静かなる山』 『続 静かなる山』を探したら数冊が売りに出ている。

3. 好著にしても、とかく高いといわれるのが茗溪堂の山の本だった。編集を任された私が「なんとか安く作りませんか」と坂本さんにお願いし、『静かなる山』『続 静かなる山』の2冊とも山の数を97に絞った。普通には『日本百名山』にあやかって100山にするところだろうが、そうすると3山分の紙取りと台数割りが半端になって割高になる。そのために切りのよい97山にしたのだが、かえって「このなにもかも百名山ブームのなかで、97山とは奥床しい」と、ある人からお褒めの言葉を頂戴したのだから、世の中、解らないものである。

4. 『静かなる山』は、これまでになかった内容の山の本ということで、なかなかの評判になった。と、あるハイキングクラブではシテヤラレタとの気味もあったらしく、「われわれが手がけたら、もっといいものができた」と云ったか云わなかったか。そんなことが伝わってきたとき、川崎さんが「なにを云っているのかね、著者の格が違うよ」と、これも云ったか云わなかったか、であった。

5. 『静かなる山』の定価は1700円、2年後に出した『続 静かなる山』は100円あがって1800円の定価となっている。装丁と表紙の絵、色頁の口絵は両書とも藤井実画伯にお願いした。写真は全てモノクロの1頁1葉で前書が16頁、後書は8頁におさえた。これもなんとか定価を安くしたいとの願いだった。ところで、以下はまったくの蛇足だとお断りしたうえでのことになるが、昔のW稼ぎ帳Wを見ると、『静かなる山』では「3000×0.07×0.2×1700×0.9」と、今となってはわけの解らない計算がしてあって64260、同重版も同額、2冊目の『続 静かなる山』でも同じような計算方法で64800という金額が記してある。ひっくるめて193320円の印税を頂戴したことになり、わが家の家計にとっては大きな助けとなる収入であった。社長の坂本さんは2012年に亡くなったが、社業を引き継いだご子息の克彦さんにも、ここで、あらためて厚くお礼申しあげたい。

6. 表紙に川崎精雄、望月達夫、山田哲郎、中西章、横山厚夫と並ぶ著者名は齢の順。そのうち望月さんは2002年(88才)、川崎さんは2008年(101才)、中西さんは2009年(78才)に亡くなった。絵描きの藤井さんは大分前に脳疾患で倒れて入院と聞き、その後、しばらくして夫人とも音信が絶えた。藤井ご夫妻、今は、どうなさっているだろうか。(参考・釈迦ヶ岳再訪)   (2018.11)

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