達沢山
 1977(昭和52)年10月30日

こうして古い山の写真、ことに中央沿線の山へいったときの写真を見ていくと、いかに望月達夫さんと数多く登っていたかがよくわかる。

達沢山もその1つで、いつものように「道があるかどうかわからないけれど、横山君、いってみようじゃないか」とのお誘いだ。私もこの山は河田驍ウんの『小さき峠』(十字屋書店/昭和24年)で読んで、一度は登ってみたいと考えていたのでよい機会だった。

「河田さんは狐新居から登ったと書いています」と塩山からタクシーを使い、その集落の少し奥から歩きだした。最初はかすかな踏み跡も、沢から小尾根、小尾根から大尾根と登っていくにつれて明瞭になり、すらすらと山頂についた。林に包まれて眺めはないが、その静さ、その人気のなさがよかった。しばらくの昼休みのあと、この日の後半は京戸山を越えて摺針峠まで歩き、峠からは金川の谷にくだった。



上 達沢山の手前で、このような石碑を見た。「猪熊 供養塔 黒駒大物会 代表堀内藤?雄 昭和四十八年二月」。イノシシ、クマとなれば確かに大物には違いないが、そんなにたくさんのイノシシやクマが、この辺にいたのだろうか。

下左 達沢山の山頂には、字の消えかかった板切れの標識が木にうちつけてあるだけだった。

下右 望月さんは山ではゲートルをご愛用だった。これは日本陸軍キスカ島守備の独立野戦高射砲第二十二中隊勤務であった頃に身についたものだろう。終戦時には伍長だったと聞いている。それに、こういっては失礼だが、ちょいっとガニマタ気味だった。          

(2012.11)

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