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横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠

荒船山と御陵山(おみはかやま)


















































御陵山からの天狗山
毎年の春と秋、親しい仲間の何人かがロッジ山旅に一泊して近くの山や峠を歩くのを恒例としている。それを「森山の会」ともいいならわしているのだが、今年(06)春の日取りは4月15,16の両日ときまって、初日は荒船山を越していこうとなった。つまり、毎度、中央線に乗るばかりでは芸がないので、今回は趣向を変えて上州側から内山峠経由で荒船山に登り、信州の小海線側に下ってロッジ山旅にいこうと考えたのである。

そして、いつものようにマネージメント方を三好まき子さんにお願いすると、これが実に卓抜な計画によって、万事、スムーズに実行され、実に楽しい山行になった。

まず、嬉しいのが高速バスの利用で、池袋駅前、朝7時55分発の上田行に乗って下仁田が10時少し過ぎ、新幹線プラス上信電鉄利用よりもずっと格安とは、これまたプランナーの配慮に違いない。下仁田に着けば着いたで予約のタクシーが時間通りにやってきて、一路、内山峠へ。さらには一時雨の予報が高曇りの、まずまずのハイキング日和に変じたのも、彼女の心づかいの一端といってよろしかろう。
   

ところで、私が荒船山に最初に登ったのは1970年の秋のことで、2泊3日の山行だった。1日目は下仁田から市ノ萱経由で神津牧場にあがって泊まり、翌日に艫岩、京塚山と歩いて荒船不動へ下り初谷から小海線中込駅へ出た。さらに、その夜は小諸の旅館に泊まり、3日目に浅間山へ登って帰宅した。その後は、74年1月、87年4月、94年11月、05年3月(ロッジ山旅週例登山)と、間をあけて4回登っている。

94年11月のときは2日の日程で、寺田政晴君と一緒だった。初日は朝早い出発で小海線の羽黒下から茂来山に登って駅前の光盛館泊。翌日は小海線で中込駅までいき荒船不動までタクシーを奮発し、星尾峠から京塚山へ登ったあと、晩秋の好日を一日かけて黒滝不動への長丁場を歩いた。初めは艫岩から上州側の三ツ瀬へおりるかなどと、ごく当たり前のことをいっていたのが、星尾峠の少し先の真新しい絵看板で黒滝不動寺へ続く尾根にしっかり破線が記してあるのを見ると、急に行き先が変わった。互いに「こんな道、知らなかった」といい、「京塚山往復のあと、今日これからはこの道を歩いてみよう」となった。

いま、あらためて打田^一さん執筆の昭文社/山と高原地図『西上州』を見ると「西上州の名山と、岩壁に囲まれた禅寺を結ぶ縦走コース。緩い上下の尾根道だが、荒気味で1日ではハードだ」とあり、所要時間は京塚(行塚)山・黒滝不動寺間を5時間15分としている。岩峰を縫い藪を分け、展望のよい峰を越してなかなか面白い道だったが、確かに長かった。けっして遅いという足取りではなかったが、黒滝不動寺着が3時すぎになって、正直、これ以上歩くのは願い下げだという気になった。そこで寺の社務所に公衆電話のあるのを幸い、下仁田駅からタクシーを呼んで楽をした。

94年というと12年前になる。いまでも歩いて歩るけないコースではないだろうが、相当へばるに違いない。よい時にあるいておいてよかったと思う。

なお、その前の87年4月は、大森久雄さん、泉久恵さんと同道し、まず下仁田から小沢岳に登って荒船鉱泉に泊まり、翌日は三ツ瀬から艫岩に上がり、京塚山、星尾峠、星尾、羽沢と歩いた。

   

さて、6度目の、このたびの荒船山。内山峠から登るのは36年ぶりになり、前回の記憶は何一つ残っていなかった。家人も同様といい、道々、「こんなところ覚えてる?」「いいや」の連発。登りきったあと、艫岩へは下り気味にいくなんて、いったい、どこの山かと疑りたくなってきた。尾根を渡るように何度か変え、途中に水場があってと続く道筋も、まったく新規の山にほかならなかった。

艫岩の、浅間山がどんと見えてこその大展望はイマイチのかすみ具合だが、予報からすれば上出来の部類であろう。昼食は、みな、てんでに腰をおろし、例によって例のごとくに始まった。大森さん、寺田君の顔も見えている。ただし、三好さんの事前の通達「2時半に荒船不動にタクシーの予約がしてありますから、いつものような長休みはできません」も、ご自身が笑顔満面で缶ビールをプシュとやれば、余り遵守されたとは思えなかった。

こんな例えは今の人には通じないかも知れないが、深田久弥さんが評して超弩級航空母艦「荒船」。そして「甲板は、熊笹と落葉松とが思い思いの部分を占めた、広々とした高原である。何という快豁爽快な頂上だろう。僕は細い径の導くままに腰きりある熊笹を分けたり、明るい茅戸へ出たり、その広い原を南へ進んで行った」のは、1942(昭和17)年11月の昔だが、その辺りは60年以上たった今日でも、そう変わっているとは思えない。ただし、深田さんが歩いた晩秋のよく晴れた日とは異なり、4月の半ばで雪はないにしろ、まだ、冬枯れの寒々しいままだった。この間だけでよいから、すっと林間に差し込む明るい春の光が欲しかった。

京塚山へは登った人もあり登らなかった人もありで、2台のジャンボタクシーが待つ荒船不動に、それほどの疲れもなく下り着いた。そこで臨機応変、行き先を中込駅から甲斐大泉駅前パノラマ温泉へ急きょ変更とは、いうことなしの結末ではないか。次回も三好さんにお願いすれば、このように万端よろしくやってくださるに違いない。期待してます。

   

1日目がよければ、2日目もよし。朝のうちにちらちら舞っていた小雪が朝食が終わるころになるとやみ、青空さえのぞくようになった。

「この天気では登らずばなるまい」の、ああだ、こうだの果ては御陵山に落ち着いて、これがよい選択だった。私は2度目だが、大方のみなさんが「まだ、登ったことがない」という信濃川上村は千曲川右岸の1822.4m峰。往復正味3時間程度の、老体勢2日目としては格好の山である。

御陵山については、このホームページの[「長沢ロッジ」の山々]で触れているので、ここで贅言を加えるのは差し控えたい。

ただ一つ気になるのは、その山頂の神社に祀られるのは、なんという神様かということで、私考するに、それは栗雄犬引命(くりおいぬびきのみこと)という邪神ではないかしら。長沢君の見解をたずねたい。※注

   

藤島敏男さんが亡くなったあと、遺愛の地図多数を望月達夫さんのはからいで私が頂戴したことは、これまでにも何度か書いた。いま、そのなかの明治43年測図の5万図「金峰山」で御陵山を探すと、標高は変わらないが山名の記入はない。しかし、藤島さん自身の筆跡で高町山と書き込んである。ちなみに原全教さんの『奥秩父・続編』に当たると、「千曲川北岸の山脈の御墓山(馬越峠東の千八百二十二米峯)には、住吉神社祭神の墓があるとの言ひ伝へもある」とあるものの、高町山の名は出てこない。藤島さんは、なにによって、その山名を得たのだろうか。次に手っ取り早く『大辞林』で住吉神社を見ると、底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后を祀るとある。でも、そんなに大勢の神様を宿すにしては、あの社は小さすぎないかと疑わしく思う一方で、私の祭神栗雄犬引命説はあやしくなってきた。

   

 添付のモノクロ写真は1970年10月31日、神津牧場から荒船山間で撮影。                  (2006.5)


※注  ロッジ山旅の犬、クリオがこの山で一度行方不明になったことがある。この日も行方不明になった。結局見つかりはしたが、滅多にないことなので、横山さんの栗雄犬引命説が浮上したのである。おそるべき邪神である。(長沢)







































































御陵山山頂にて
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