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 横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠
 
剣ヶ峰

まず、この写真を見てください。



撮影場所は一昨2007年に完成した琴川ダムの堰堤の上、撮影日は先の10月1日、長沢木曜山行で剣ヶ峰に登った日の帰りである。

変わった、変わった。私はこの景色を見て、びっくりしてしまった。 
                2005.9 小楢山登山の帰りに立
                寄った鳥居峠荘での語らい。
                上の写真で右側の入り江の奥の
                台地に建物があった。

琴川にダムができると、このように柳平の周辺はすっかり変わった。なかでも私にとっての一番の変わりようは、長年のなじみの民宿「鳥居峠荘」が跡形もなくなったことである。それもただ民宿の営業をやめたというのではなく、経営していた若月さん一家がダム工事がすすんで下の街に移ったあと、建物そのものまでが取り壊されてしまったのだから並の変わりようではない。いまとなっては長沢君運転の車から、「ここのところに若月さんの家があったのだ」と指差し、かつて若月さん一家の歓待にあずかり、楽しい夜をすごした「鳥居峠荘」の在りし日を想うのみである。

今は亡き望月達夫さんや川崎精雄さん、柿原謙一さんとも泊まったことのある宿であり、ご一緒した大丸戸や小楢山、剣ヶ峰などの、あの時この時が懐かしい。

なお、この宿との親しい付合いは、27年前の1982年の6月、中野英次さんと小楢山からおりてきて泊りを頼んだときに始まっている。あの日、急な飛び込みにもかかわらず、若奥さんが笑顔で別棟のガラス戸を開けてくれたのが忘れられない。

「広々というには当らないにしろ、谷はゆるやかに南に開けて、一面、緑の牧草地である。まだ暮れるにはしばらくの間があって、先ほど宿についたときからカッコウが鳴きどおしだ。発酵した飼料の酸っぱい臭い、牛糞の臭いを深呼吸して嗅いでみるのも物珍しくて、あぁ、いいところにやってきたなと思う。」(拙著『一日の山・中央線私の山旅』〔実業之日本社/1986〕収録の「倉沢山の三角点」の冒頭)

私はこのときから「鳥居峠荘」がすっかり気に入り、以後、山の行き帰りに何度か泊めてもらうことになった。当時、若月さん一家は老夫婦、若夫婦と小学生の次女の5人(長女は山梨の高校に寄宿)家族で、約30頭の牧牛のほかには7羽のウサギ、小形のシェットランド・シープドッグ1匹が飼われていた。あとになって、猫が1匹加わったが、それは、ぽいと捨てられた捨て猫に違いなく、本来ならばポイと名づけるところだが、それでは余りに気の毒だということで、パイと呼ばれていた。

閑話休題。


ここからが本題の剣ヶ峰だが、もう一度、前掲の写真のクローズアップを見ていただこう。画面右上に丸く盛りあがるのが、2053メートルの、その剣ヶ峰である。形からすると、どうして剣ヶ峰などという名がついたのか、およそふさわしくないと思うのだが、その由来を私は知らない。しかし、こじんまりと丸い山容を私は善しとして、1983年5月の初旬、鳥居峠荘泊3度目の翌日に登りにいった。

いかにも五月晴れそのものの、清々しく晴れ、南アルプスの残雪が真っ白く輝く日であった。





そして、いまここで、そのときの写真をご覧になれば、今日とはまったく異なり、剣ヶ峰がいかに展望絶佳の山であったかを分っていただけるだろう。小広いカヤトの山頂からは、富士山、南アルプスの連山、奥秩父の盟主金峰山はいわずもがな、遠く八ヶ岳の左には乗鞍岳、木曾御岳までを見ることができた。





しかし、その後の四半世紀、カラマツの植林か育って展望皆無の山になった。

1986年10月に柿原謙一さん(その時の柳平の様子は
ここをクリック)、1998年9月に寺田政晴君と登った時は、まだ幾らかの眺めが楽しめたが、いまは山頂にしろ密に茂った林に囲まれた小平地にすぎないし、登る途中もカラマツが混みあったなかばかりで、なにも見えない。

でも、そうと知りつつ、今回の木曜山行に参加したのは多分に懐旧の想いがあってのことだが、それはそれとして4度目になる剣ヶ峰登山も、また、あらためて楽しいものになった。

初秋の好日、親しい木曜山行常連の方々との山行であれば、たとえ眺めがなくとも満足だし、このところ膝痛腰痛になやまされている身にとっては、なんとか無事に登れたという喜びも大きかった。

同行の皆さんには心からのお礼を申しあげたい。 (2009.10)


2009.10.1の剣ヶ峰登山。(長沢撮影)

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