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鳥倉林道から小渋川を見おろす。
手前の集落が上蔵(わぞ)でその山側に延齢草がある。

            南アルプスを貫くリニア中央新幹線

かつてこの連載で『昆虫にとってコンビニとは何か』(高橋敬一著・朝日選書)を取り上げたことがある。

高橋氏が指摘したのは自然保護や環境保全が孕む無意識の欺瞞だった。すなわち、自然のために世のために良かれと思ってする保護活動の真の目的は自分自身を安定して生かすためで、その動機はごく私的な願望や郷愁に発している。にもかかわらずそれに気づかないのは生物としての本能がそうさせているからだ。

この本を読んで我が意を得たりと溜飲を下げたが、下がった溜飲はひどく胃にもたれた。

高橋氏はその後『自然との共生というウソ』(祥伝社新書)で「自然との共生」とは「他人による自然破壊を止めさせ、私個人にとって親しい自然の中で、私および私の遺伝子の安心な生活が保証されること」と、自然保護の本質についてさらに喝破している。

この本にも前著同様に快哉を叫んだものだが、叫んだといっても内なる心の洞穴に向かって低く叫んだので、それは浮世のことはなるようにしかならないとうそぶいて、座して眺めているだけの自分に多少なりとも引け目を感じていることによる。何となれば傍観者を気どっていられるのは当事者ではないからであって、何事においても自分が矢面に立たされたなら笑って見ているわけにはいくまい。

さらには、共感したとはいえ人間が否応なく本能の指令で行動するという考えが、現在我々が持つ常識下では人類全体の悲劇的な行く末を予感させる以上、その端くれである自分にとって手放しで喜べるはずはないからでもあった。



数年前に映画『大鹿村騒動記』によってその名前がしばらくマスコミをにぎわせた長野県大鹿村は、登山をする人なら映画によるまでもなくウェストンの時代からの赤石岳への登山口としてとっくに知っていただろう。

この村へ年に一度は遊びに行くようになったのは六年前からである。山が縁で知り合った佐藤明穂さん一家が「延齢草」という屋号の宿を営んでいて、そこがすっかり気に入ったからだった。

ここに新たな「大鹿村騒動」が降って湧いた。

宿の南には、二百メートル下を流れる小渋川の谷を隔てて青田山(せいたやま)がそそり立つ。真下の川面は樹林に隠れて見えないが、そのわずか上流にリニア中央新幹線の橋を建設する計画が発表されたのである。南アルプスを貫通したトンネルを出た新幹線がいったん外界へ出、橋で川を渡って再びトンネルに入るという。

佐藤さんからこの計画が村と南アルプスの自然界に与えるだろう悪影響についてのレポートをもらった。詳しく紹介する余裕はないが、長大なトンネルから出た土砂の運搬だけに限っても、何年にも渡ってダンプカーが狭い村内をひっきりなしに行き来することを想像すれば住民の迷惑は察せられる。(参照)

だがこれは大鹿村だけの問題ではない。貴重な高山帯のある南アルプスでなら悪いが、他の山域でなら構わないということにもならない。この計画によって似たような騒動は当然路線が通ることになるすべての場所で起こりうることである。すでに山梨県では甲府盆地南部で着々と工事は進んでおり、巨大なコンクリートの高架橋が各地で風景を変えているのをしばしば見る。駅ができる甲府市大津町の田園地帯の開発をめぐっての論議もかまびすしい。おそらく他県でも駅ができる地域では同じく活性化の話題で盛り上がっているだろうし、ただ通過していくだけの地域では大鹿村同様に自然破壊だとの声が大きいことだろう。

自然保護の立場からすればとんでもない破壊者としか見えない側が、自分たちの行為が人類の繁栄につながると信じているらしいので話はややこしいが、保護論者側とて、まさか人がまったくいない野生動植物だけの世界を夢見ているわけではあるまい。なんとか自然と共生しつつ人類の未来を築いていけないものかと試行錯誤しているに違いない。要するに快適を手に入れたいという目的は同じだが、方法と、何を快適と感じるかが異なる。そしてその感覚は両者とも私利私欲に根ざしているのは冒頭の高橋氏の本にあるとおりである。

だが正義を言わない私利私欲なら何を恥じることがあろうか。山歩きを楽しみとする私が自然がそのままでと欲するのは遊ぶ場を保全しなければ自分が困るからである。したがって心情はむろん後者に近い。

一方、前者は科学や経済学を信奉する者どもで、彼ら(実は彼我は明確に区別できるものではないが)はいよいよ増長している。それを阻むのが哲学や文学に現れる思想のはずだが実利に組み伏せられて旗色は悪くなるばかりである。古くバベルの塔の時代にすでに人類の科学技術への過信が戒められているというのに、過信はもはや盲信となり、戒める方の思想は、神をも恐れぬ所業だと言い続けるだけで、旧態依然としてまるで変わらないのである。

だが数千年も変わらない思想があるならそれこそ本物ではないのか。しかしこれは実体のない直感に属するものだから、目の前に現れた現世利益的な科学の成果の前では無力で、結果、我々はバベルの塔どころではないものを次々に造ってきた。

科学は時代時代で画期的な成功をおさめてきたが、後世から眺めればそれらの成功も失敗に似たものである。これが科学の進歩というもので、つまり科学における絶対などはない。文明が後戻りできないのはそういった理由による。そして我々の生はその文明の下(もと)にしかない。

佐藤さんのレポートの最後に、そもそもリニア新幹線など本当に必要なのかという項があるが、私の思うところもそこに尽きる。もうほどほどにしてもらいたいと傍観者は弱弱しく嘆くのである。

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