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 映画 『劒岳 点の記』

映画館にはもう十数年足を運んだことがなかった。新作でも少し待てば家に居ながらにして観られるようになったからだが、そうやって観た、わりと世評の高かった新しい映画にろくなものがなかったので、田舎住まいの身には映画のためにわざわざ街中まで出かける気になれなかったのである。

奇跡的傑作という言葉があるが、映画が傑作になるのは、むしろすべて奇跡ではないかと思える。映画にはあまりにも大勢が関わっているからである。脚本、演出、カメラ、編集、俳優、その他諸々が最高の形でうまくかみ合うことなど奇跡か偶然としか考えられない。それゆえ巨匠と祭り上げられている監督にさえ、これぞ傑作というものがそうざらにあるわけではない。この監督ならと期待して失望に終わることが多々ある。そして、年々奇跡は起きにくくなっているように思える。

傑作が奇跡的なら、それに新たにめぐり会うのに王道はなさそうだ。つまり手当り次第に観て、駄作の山を乗り越えていく以外にない。

犬も歩けば棒にあたるだろうとは実に不経済だが、マスメディアに出てくる新作映画評などがまるであてにはならないのだからしかたがない。

芸術や映画、あらゆるエンターテインメントは商品である。ことに映画には極端な製作費がかかる。売れなければ会社が傾く。特殊な商品だから店頭で手にとって吟味できるものでもない。そこで封切に向けて大げさで思わせぶりな宣伝をする。

角川映画は新聞雑誌テレビあらゆる媒体を利用して一世を風靡した。もちろん媒体もそれで儲けた。タイアップ広告である。要するに情報を発する側が寄ってたかってぐるになったのである。封切作品を悪く批評するのはタブーとなった。

試写会に呼ばれる評論家もぐるである。良ければめでたいがよしんばひどい出来でも悪く言えるはずはない。その業界で飯を食うならそうなる。忌憚のないご意見をとは褒めろという意味である。だからそこでの意見はご祝儀である。同業他社も資金や俳優の調達が複雑にからみあっているからうかつなことは言えぬ。営業妨害にもなりかねない。

大道具だろうが照明だろうが、はたまた俳優だろうが、製作に関わったその他大勢は観客同様映画が完成して初めて観る。映画は細切れのカットの集大成だからそうなる。各々心酔した映画があってこの世界に飛び込んだのだから、その作品がどれほどのものかわからないはずはない。こんなはずではなかったと思うこともしばしばだろう。しかしそれは居酒屋での愚痴以上にはならない。

かくして新作映画に業界内から批評らしい批評は出ない。賞はもっぱら経済的理由で与えられる。映画ファンは自分の目で確かめるか、時を経て評価が定まるのを待つしかない。



新田次郎の『劒岳・点の記』はずい分前に読んだ。もう細部は憶えていない。

それが映画化されるという話がいつの間にか私の耳に入っていたのは撮影開始と同時に宣伝も始まっていたからだろう。小説が出てから三十年もたって映画化とはよほど材料に困っているのだろうなとまず思った。だがそれも無理はない。時代のテンポは年々早まって応接にいとまがない。タネはとっくに尽きている。そこで過去か際物に題材を探すことになる。

本格的な山岳映画だというのも宣伝で、実際に観た客の話ではない。映画の宣伝なら大げさで話半分どころかまったく信用できないことは前述した。「史上最高」「超大作」こんな言葉をいったいどれほど見ただろう。だが宣伝部がつくるコピーくらいならご愛嬌である。

山が舞台の映画だということで、山岳雑誌に監督のインタビューが載った。

「本物だ。苦行だった。妥協しなかった。志がある」驚いたことに監督が自らを絶賛している。こうなればご愛嬌ではすまされない。厚顔無恥である。

料理は出来上がったものが旨ければいいだけのことなのに、テレビ番組が料理人に苦労話すなわち自慢話をさせ「こだわる」という動詞の意味合いまで変えてしまったのはそう昔のことではない。

なるほど今では映画監督もそんな風潮に毒されているとみえる。しかし監督なら自分の映画が全てで何を付け加える必要があろうか。しかもよりにもよって苦労を売り物にするとは。よし、ならばその「本物の映画」とやらを観てやろうじゃないかと十数年ぶりに映画館に乗り込んだのであった。

監督が自画自賛するようなら、ろくな映画ではないだろうという予感は見事に的中し、あえて粗さがしをするまでもなかった。まったく金と時間を費やして空しい確認をしに行ったものだ。

原作との比較は表現方法が違うのだから言ってもしかたがない。また、なまじ私が登山史を少々知っていることから生ずる違和感は措くとしても、登場人物の平板さや話の組み立てのまずさはいかんともしがたく、浅薄で幼稚なヒューマニズムやヒロイズムには目を覆うばかり、ラストシーンに至っては噴飯物であった。とにかく二時間あまりがおそろしく長く感じられ睡魔に何度も襲われた。

山岳美を苦労して撮ったというが、風景は映画の虚構を固めるための架空の現実にすぎない。美しいなら美しいことが劇に寄与しなければ何の意味もなく、独立して賞賛されるならそれは客の過ぎた寛容による。

DVD化されたときには、おそらく特典として撮影風景が加えられ、金を払って自慢話を聞かされる人が多く出るのだろう。

思えば日本の私小説というものも、自らの不幸や苦労を語って実は自慢話をしているものが多かった。それを有難がる読者がいたからだが、その伝統は死なずというべきか。

あからさまな自画自賛は論外としても、言葉や文章には我知らず自慢話になっていく傾向がある。ことに山の文章にはある。自戒しなければなるまい。


           上記の文章については反論が多くあり、それを材料にもう一編書けるなあとケチくさいことも考えたが、
           それもあまりにしつこい話なので、ここに補遺を書きとめておく。

私は映画『劒岳・点の記』を俎上にし、もっぱらその駄作ぶりを論じた。宣伝の甲斐あってか、かなりのヒット作となった映画だったので、発行部数の少ない『山の本』に載ったにしては反響がわりと多かった。これは、どうせ噛み付くなら、よりメジャーなものに噛み付くほうが注目してもらえるという事実を示している。批評がコバンザメになりがちな理由である。

私が考える正論というものが、どうやらいつでも少数派に属するらしいことは前々から気づいていたことだが、最近ではそれがはっきりとしてきた。衆寡敵しないことは重々わかっている。しかし、というより、だからこそ批評は多数派に向けてこそ矢を放つべきだというのが私の考えである。そして批評は冷静でなければならない。

私は芸術は個人のものだと考えているので、映画を芸術というには疑問を感じるが、もしそれが芸術の一派だとすると、それに加えられる批評は冷徹なものだ。好き嫌いの問題ではない。淀川長治がテレビの映画解説で、どんな映画にでも何とか美点を見つけ出そうとするのとは違う。

私の文章に対して反論があることはわかっていたことである。その内容までわかっていた。そこにあるのは善意である。善意はしばしば正義の旗をかかげて大通りを闊歩する。その行く手を私がさえぎったのだ。正義に盾つくとは何事だろう。当然、頭に血はのぼり、目は血走る。言葉の端々に固執して反論は冷静さを失う。

この映画を良しとする人々は剣岳をはじめとする山岳風景と、それを現地で撮ったという苦労に惑わされているらしい。

まずその山岳風景だが、映画は暗闇の中で観客を数時間だましてナンボで、こういった現実の風景は、せっかくのだまされたい気分を台無しにすることがある。人は文字を読むだけでも感動できるし、舞台でも感動できるし、うしろで黒子が丸見えの人形劇でも感動できる、つまり想像力で感動するのである。

映画作家は、映像で人を感激させてやろうと思いがちだが、とんでもない思い違いで、映画は脚本がほとんどすべてである。映像はそれを生かす手段にすぎない。具体的な映像を目の前に提示してやればいいだろうと思うのは安易過ぎる。

『劒岳・点の記』は、昨今とても多い、映像のみがひとりで威張っている典型的な映画で、これはCGだろうが実写だろうが同じこと。脚本が駄目だからこれみよがしの映像でごまかそうとするが、話にならないものは結局話にならないというだけのことである。

撮影の苦労については、わが尊敬する倉橋由美子の文章に語ってもらえばすむ。

「わが国では、出来損ないでも何か真実を目指して頑張っていると目された小説については、大いに語るべき価値を認めるという慣行が成立している。」

この中の「小説」を「映画」に置き換えれば、私の言うことはもう何もない。

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