『山戀ひ』 宇野浩二 著

小学校低学年まで住んだ生家の本棚には大仰な装丁の日本文学全集が並んでいた。その頃の私に読めるような本ではなかったが、見るともなく背表紙は眺めていたはずで、そこにあったはずの宇野浩二の字面もいつのまにか憶えたのだと思う。この作家の名前を知った理由は他に思いつかない。
 
再びその名前に出会ったのは山岳書をよく読むようになってからだった。というのも、宇野が『山戀ひ』という小説の中で甲斐駒ヶ岳を歌舞伎役者の団十郎に例えて讃えたことが、小説家が山岳展望について書いた文章の代表的なひとつとして挙げられているのをよく見かけたせいだった。
 
とはいえ、ではその小説を読んでみようとはまったく思わなかった。想像するだに辛気臭そうな私小説を読むには青年特有の情熱が必要で、私はもう青年とはいえない年齢になっていた。
 
ところがつい先日、長野県富士見町のミュージアムを観覧したことが宇野の小説を読むきっかけとなった。そのミュージアムは町立図書館の二階にあって、町と縁のあった文人墨客の作品や人を紹介しており、博物館というよりは文学館の趣である。
 
ことに縁の深かったアララギ派の歌人や尾崎喜八がらみの展示物が多い中に、その作品に富士見駅が登場することなどから宇野関連の展示物を収めたガラスケースもある。何度も訪れたことはあったが、ケースの中までしげしげと見たのは今回が初めてだった。
 
ミュージアムの壁には作家たちが書いた、町に関わる文章がそれぞれの作品から抜粋されて展示されており、そういった抜粋だからかもしれないが、陳腐な文章が多いなあと以前から思っていた。では宇野浩二の文章はどうなのだろうとその日はたまたま関心を持ったのだった。

ケースの中には『山戀ひ』の最初の二ページが見開きになっていたので、ガラスに顔を近づけて読んでみた。
 
一読、これはひどいと思った。最初からこれならその後はどうなってしまうのだろうと、半ば怖いもの見たさで続きを読んでみたくなったのだから我ながら意地が悪いが、さっそく『山戀ひ』を収めた全集の端本を取り寄せ、想像していたより長かったこの小説をなんとか読み切った。そして当初の感想は読了後も変わることはなかった。
 
論より証拠、こんな文章では先が思いやられると不吉な予感がした冒頭の部分を引いてみよう。
 
<いつから私がそんなに山を戀ひするやうになつたか、私は知らない。考えて見ると、極く少年の頃からさういふ傾向はあつたとも思へるし、また別の考へ方に依ると、それは多分何處で何といふ山を見初めたのが元ではなかつたらうか、といふような記憶がないでもない>
 
山岳宗徒にとっては宇野がほとんどそこだけで記憶されている「団十郎」の部分は以下である。
 
<駒ケ岳は恰も舞臺に出てゐる團十郎のやうに見えた。外の諸諸の山は悉く彼の影に消されて、ひとり彼だけが、駒ケ岳だけが觀客の目を引き付けるのであらうか>
 
この一節は甲府から諏訪へ向かう中央線の車窓からの山岳展望をかなり長い文章で描写した中にあって、その前後の文章とともに、冒頭の文章ほどは悪くない。しかし小説における風景はすなわちそれに仮託した心象ともいえるわけだが、山の描写が物語とさして関わっているとは思えず、それらはただ唐突に現れることが多い。
 
宇野自身が主人公といえるこの私小説は、諏訪に住むゆめ子という芸者への思慕とともに山への思慕、それに加えて諏訪や東京で関わった、宇野を先生と呼ぶ読者たちの生態が描かれるといった内容で、しかし前述した山の描写と同じく、それぞれがお互いを補完するといった芸はなくて、さらには作中で時間が前後して惑わされたりもする。察するに、頭に浮かんだことを浮かんだ順番に、過ぎた饒舌でくどくどと書き綴ったのではないかと疑われる。それでいて、主人公はゆめ子に惚れていながら、驚いたことに同じ置屋にいた他の芸者と結婚しているのだが、その経緯は饒舌の中には少しも出てこない。おそらくは私小説の常套で他の作品を読んでいることが前提なのだろう。
 
けなすことばかりでもない。甲斐駒や白峰が、甲州在住の私が今眺めているのと変わらぬ姿で描かれているのを読み、人の世の移ろいに較べて微動だにしない山のありがたさを思ったのは収穫だった。もっとも、これは時が流れた結果でもあろうが。
 
それにしても、なぜこの程度で日本文学全集に収められたリ個人全集が編まれたりするほどの作家たりえたのだろうかという疑問はどうしても残る。
 
この作品は大正十一年の発表だが、いまだ口語作品は発展途上で、しかも流行りの言い回しがあったのだと思われる。当時の他の作家の文章を読んでも今の感覚では生硬な印象を受けることが多い。書く側がそうなら読む側も同様で、違和感はなかったのだろう。筆一本で身を立てようなどと企てる者は少なく、世にも出やすかったのだろう。自らの放蕩や恥部を縷々書いて先生と呼ばれるのもはなはだ面妖なことだが、これもそんな時代だったと考えるしかない。
 
言葉は常に変化し用い方も人それぞれである以上、口語文の完璧な規範や完成などありえないのかもしれず、今喝采を浴びている文章も百年後にはどういう風に見られるかは誰にもわからない。よくもこんな文章が好まれたものだと呆れられるかもしれないのである。
 
『山戀ひ』が大正期の文学などにほとんど興味のない私の目に留まったのは、当時の小説に山、ことにその展望が描かれることが稀だったので山岳愛好家に記憶されたからだった。しかし、題材が枯渇し表現が使い尽くされた今、稀少性から後世に顧みられるような文章が生まれることは文字通り稀だと思われる。

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