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            戸倉山(12月8日)

例年、夏休み明けに一度は連休が取れるのだが、都合がつかなくて十二月にまでずれこんでしまった。こんなチャンスにこそ日帰りではむつかしい山に登りたいのは、それこそやまやまだが、そんな山はすなわち標高が高い。十二月ともなれば、およそ赤ん坊を背負って出かけるわけにはいかない。九月か、せいぜい十月までならば、北アルプスの個室のとれるような山小屋に一泊してゆとりの山旅をしたかったが、それも夢と消えた。

となれば、たまには温泉にゆっくり浸かって、と、ごくごく平均的な日本人の発想になる。しかし、それとても山旅を組み合わせないわけにはいかない。山旅あってこその温泉である。夏ならば大いに汗をかいたからこそ、冬ならば寒風にされされてきたからこそ温泉が有り難いのである。ただ温泉だけに入るのはもったいない気がする。

たまの連休なのだから、なんとか充実して過ごしたいと思い悩み、心千々に乱れる。山小屋に泊まる計画なら、いつもは日帰りで歩くところを二日に分けて歩くのだから余裕も生まれようが、麓の温泉に泊まるとなれば、結局日帰りの山を二つ稼ごうということになって、なんとも休息とは程遠い。だが、山に登らないとリフレッシュしたような気にならないのだから仕方ない。

こんな場合、ほとんど行き先は長野県に決まっている。那須などの北関東にも行ってみたいが、東京を通過するのが億劫である。東京に住んでいれば、その点ではいいなと思う。東京からは放射状にどこの山域にでも交通機関がまんべんなく達しており、今日は甲州、来週は武蔵、連休には南会津へとよりどりみどりである。

さて、長野県といってもいささか広い。県北部はもはや裏日本の冬の気候になっているだろうから、晴れることが少ないだろう。県南部のほうがいい。そこで、伊那谷に沿う山々が候補に上がった。名古屋の実家に帰る際、中央道を運転しながら横目でちらちらと見る、甲州側とは逆の並びになる南アルプスを山に登ってゆっくり眺めようというわけだ。

高校時代に繰り返し眺めていた写真に、下伊那郡大鹿村大河原、小渋川にかかる小渋橋から見た赤石岳を撮った白籏史朗さんの写真があった。

夕暮れの、日の陰った中洲や転石の上に雪の残る川面の上には、雲をまとった神々しいばかりの赤石岳の銀嶺だけが残照に浮かび上がる。まるで河童橋から仰ぐ穂高連峰のように眼前を圧してそびえ立っている赤石岳は、今考えれば、望遠レンズによる圧縮効果で現実以上の迫力を出していたのだろうが、そのころはそんなことは知らず、人里からこんなにも巨峰が間近に望める場所があるのかと、いたく印象に残った。いずれ訪れてみたいものだと思いつつも、はや四半世紀がたってしまったというわけだ。

この地に大西山がある。白籏さんの古い山のガイドブックに紹介され、『静かなる山』にも川崎精雄さんの紀行がある。白籏さんによると、南アルプスの聖岳を除く全ての三千メートル峰が眺められるという。まずはこの山をメインに据えた。温泉は?。大鹿村には有名な塩湯がある。

美坂哲男さんの『諸国いで湯行脚』でさっそく調査、源泉山塩館に電話をかけ、首尾良く予約完了。とはいっても、電話をかけたのは泊まる予定の前日で、ぎりぎりまでどこへ登ろうかと頭悩ませていたというわけだ。人の空いているときしか行動しないので、たとえ前日や当日であろうと、宿の予約で断られたことはない。

帰りがけの駄賃には駒ケ根市と長谷村の境にある伊那富士の俗称で知られる戸倉山に登ることにした。これは麓の集落の奥まで車を乗り入れればごく簡単に登れることを『遊歩百山』の横山厚夫さんの紀行から教えてもらっていた。


さて当日、もっと早く出たかったのだが、泊まりがけともなればやはり余裕が生まれるのか少し寝坊気味で、峠を出たのはすでに六時になっていた。残念ながらクリオには留守番をしてもらう。

中央高速に乗って走るうち、空が白み始める。天気はいまひとつぱっとしない。空は灰色に覆われ、高山には雲がまとわりついている。

伊那谷に入っても天気に変化は見られない。寒々として、いかにも初冬の風景ではある。伊那市を通過するあたり、左前方に富士山型の頂上を持つ山が見えた。あれが戸倉山に違いない。寝坊のせいで時間が遅くなっている。大鹿村まではまだ相当遠い。帰りがけの駄賃を行きがけの駄賃に変更するのに時間はかからなかった。駒ケ根インターチェンジで降りる。戸倉山はここではもはや富士山型ではなくなっている。文字どおり伊那市あたりから眺めたときの富士ということか。ほんの少しでも台形をした山を見つけると富士と名付けにはいられないのが日本人というものらしい。

明治以来、日本人の脱亜入欧の精神は、やれ日本ラインだの、日本ダボスだの、日本ピラタスだの、果ては日本アルプスに至るまで、卑屈で奇妙な名前を多く造りだしたが、富士山だけは特別で、世界中の富士山型の山を何とか富士と名付けて喜んでいる。どちらにせよ、無邪気と言えば聞こえはいいが、ただの馬鹿である。

少し道に迷ったものの、大曽倉川に沿った道に入ると、キャンプ場の標識が要所にあって、難なくまだ新しいコテージの散在するキャンプ場の駐車場にたどりついた。さすがに他の車はいない。季節によっては、ここを根城にして戸倉山を目指す人も多いのかもしれない。

時間は九時半。すでにここで標高千メートルを越しているので、一六八○メートルの頂上までは二時間とかからないだろう。ちょうどいい時間である。渓をかついで歩き出す。

急に決まった山なので、二万五千分の一地形図の持ち合わせはない。詳しい地図がないと面白みが減るが、仕方がない。とは言っても、地図などいらないほど立派な径が続く。ヒノキの植林の中を続いていた径は、馬止の松という場所を過ぎるころから、気分のよい自然林となった。

はじめ歩いていた小尾根がやがて大きい尾根に合流する部分で傾斜が強くなると、径は大きくジグザグを切って歩きやすくなっている。宗教登山で古くから人の訪れのあったろう山径は、ただ歩くだけしか方法になかった時代に作られたものだけに、歩行というものを良く考えてある。苦労を感じないまま、いつの間にやら高さを稼いでいる。

途中、見晴らしのよいところもあって、駒ケ根市街を隔てて中央アルプスが眺められるが、あいにく雲がまとわりついている。少し開けたところに出ると、東屋が立っていて、そのそばには水がこんこんと湧いていた。こんな山の上の尾根筋に水が豊富にあるのは面白い。

そこから、少し急な登りをこなすと、石碑や看板の乱立する戸倉山西峰だった。展望板には中央アルプスの山名が解説されているが、むしろ、南アルプス側の景色が圧倒的である。正面に仙丈ヶ岳が特に大きい。

まだ頂上を知らない塩見岳が、どこから見ても変わらぬ姿を見せ、その間には、いつも見慣れているのと逆の並びになった白峰三山の姿が珍しい。そして、ちょっとよそよそしい。

大森久雄さんの『本のある山旅』に「山を見るのに、その対象となる山を、登る前に憧れの目で見るのと、登ってから見るのと、どちらに喜びが大きいか。私の場合は、文句なく登ってから」とあるのを読んで、わが意を得たりとばかり、膝を打ったものだが、僕なりに付け加えるとすれば、「いつも眺めている方向から」もしくは「登った側から」その山を見た場合にさらに親しみや喜びが増すように思われる。同じ山でも見る方角によってしばしばまるで印象は変わるものだ。気に入った山ならば、いろいろの方角から頂上を極めたくなる。仙丈ヶ岳や北岳もこちら側からも登って、どこから眺めても親しい山としたいものだ。

荷を置いて、いろいろの人工物で少し乱雑な感じのする西峰から、一等三角点のあるという東峰へ行ってみる。いったん避難小屋のある鞍部まで下って、すこし登り返すと林の中に三角点があった。ほとんど展望はないが、わずかに覗く水面は美和湖だろうか。

西峰に戻って昼食としようとしたが、風が強く寒いので、避難小屋を使わせてもらうことにした。まだ新しい小屋に入ると、風の音もシンと静かになって、やはり家は有り難い。窓枠には額縁の中の絵のように仙丈ヶ岳がはめこまれている。ベビーキャリアから解放され、よちよちと小屋の中を歩き回る渓を見ていると、平和な気分になってくる。小さくとも、こんな景色の中に自分の家があればいいな、と、現実的でない夢想がふくらむ。いつもながらの、生活能力に少し欠ける男の白昼夢であ
る。

ま、いいさ。僕は十年後の幸せに向かって邁進するタイプではない。今日の幸福が大切だ。山も登ったし、心おきなく温泉に浸かる下地はできた。小屋を掃除して、さあ、下ろう。

渓を背負った山旅での初めての連休、今日は家に帰らなくてもいいと思うと心浮き浮きして、下りはあっという間だった。

駒ケ根市街のホームセンターで、渓の防風着を買った。僕のウインドブレーカーを改造して作ったのを着せていたが、それではすこし心許ない季節となった。中綿の入ったスキー用のスーツを奮発した。その後、本屋に寄って地図を捜した。やはり地図がないとつまらない。チェーン店風の店だったので、二万五千分の一地形図など置いていないだろうと、あまり期待していなかったのだが、さすがは長野県、ちゃんと置いてあった。山梨県の本屋ではこうはいかない。悔しいが文化度の違いかもしれない。今日の戸倉山と、明日の大西山の地図を買い込む。究極の山の楽しみは地図なしに歩くことだろうが、忙しい現代人にはまず不可能である。地図を見て歩くのも効率追求の一種かもしれない。

国道一五三号を南下する。この国道は名古屋まで続く。名古屋に住んでいるころ、すぐそばをこの国道が通っていたせいで、何となく親しみを感じるのも妙だ。そのころ呼んでいた〈飯田街道〉という名前が僕にはピンとくる。

国道と別れて、大鹿村への道は小渋湖畔をくねくねと続く。大して長い距離ではないのだろうが、初めての道は遠く感じる。やがて山の中に小平地が現れたら、それが大鹿村の落合で、役場と病院があった。「それにしてもこんな山奥にもちゃんと人が住んでいるものだなあ」と、隣の家まで六キロも離れた山の中に住んでいる人間が言うとは思えない感想を妻に述べる。「本当ねえ」この妻も変である。

宿へは北へ向かうのだが、大西山の登山口を今日のうちに確かめておこうと、南へと向かう。広い小渋川の河原を右に見ながら進むと、やがて青木川を分かつ大河原。道は小渋橋で川を渡る。高校生のころ憧れた、あの小渋橋である。車を降りて赤石岳を捜すが、あいにくどんよりとした雲が空を覆っていて何も見えなかった。すぐ目の前に見える、ずんぐりとしたどこが頂上だかわからない南へと連なる山並みが、大西山を含む伊那山地だろう。風采の上がらない姿だが、そんなことは構わない。あらゆる山にはその山ならではの良さがあるのである。登山口の目星をつけて、一路温泉へと引き返す。

山塩館は美坂哲男さんの本で見た写真から装いを新たにしていた。さっそく入った、まだ木の香のする風呂場には誰もおらず、なんともぜいたくな独占である。しかし、いかんせん湯が熱すぎる。僕は猫舌なのである。そのせいかどうか、熱い湯が苦手で、これまでもせっかく行ったものの、湯船に入れずに帰った温泉すらある。この塩湯はそれほどでもないが、とても長湯はできない。湯船を二つに分けて、ぬるい湯の浴槽があれば有り難いのだが。なめてみると、なるほど塩辛い。この山奥に古くから人が住んでいるのも、牧場が開けているのも、この塩があったためだという。それにしてもこんこんと塩を含んだ温泉が古来から流れ出していて、よく塩の成分が枯渇しないものだなと思う。

風呂から上がれば食事となる。せいぜい年に一度か二度贅沢だ。豪華な据え膳の前に座ってビールの栓を抜く。「うぐ、うぐ、うぐ、ひぇーっ、うまい」(ご同好の士よ、ここはひとつビール片手にご唱和ください)

山、温泉、ビールと見事に三段飛びが決まった。これぞ人生の快事である。猪鍋、鹿刺しと山の珍味が並ぶ。馬と鹿でなくてよかった。猪、鹿とくれば蝶である。さすがに蝶料理はないので、かわりに僕が酒に酔って蝶のように舞った。娘よ、こういう親の姿は忘れなさい。

この項、明日の大西山へ続く。

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