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          十二ヶ岳 2009.11.19



十二ヶ岳の鋸刃のような稜線には、概しておとなしい御坂山地にあっては、ほとんど唯一ともいえる険路が続く。昭和が終わる頃このあたりには足しげく通った。当時河口湖畔に住んでいた私はまだ宵っ張りの時代で、休日の朝も早起きができず、おのずと朝遅い出発でも間に合う地元の山に登ることが多かったのである。

御坂の山に行くならと河口湖の渡辺玉枝さんを誘って、登山口の文化洞トンネルに向かった。雲が重く垂れ込め、空は、はや初冬の雰囲気だが、湖畔の紅葉はまだ残っていて、朝っぱらから撮影に興ずる観光客も多かった。

かつて十二ヶ岳に登るのはほとんど文化洞トンネルから毛無山経由だったが、それも20年ぶりだった。その文化洞トンネルも今では新しいトンネルがすぐ下に穿たれ、旧トンネルはセメントでふさがれている。この旧トンネル開通の様子を描いたのが辻まことの「ずいどう開通」(『山の声』東京新聞社所収)である。

毛無山までの径では20年前の記憶を呼び戻そうとしたが、ほとんどよみがえらなかった。あれだけ歩いた径だというのに山径というのは本当に忘れてしまう。長浜への分岐の手前あたりから、周囲はミズナラの美しい林となるが、当時はそんなものには心を動かさなかったような気がする。

毛無山から十二ヶ岳までは、くつろいでいるような場所はない。ご丁寧に十二個分無理やり山名を付けてあるがいかにもこじつけである。とまれ八ヶ岳の住人である我々はここの八ヶ岳にもやってきたというわけで記念写真を撮った。

クリオを連れて行ったので、岩場や吊橋では、紐で引っ張りあげたり、担いだりする手間で時間がかかってしまった。クリオも年を取っていた。若いころならたとえ岩場が現れようと、自分に都合のいいルートをさがしてついてきたものなのにと思ったが、かくいう自分自身が、この山道を昔にくらべれば随分険しいものに感じていた。

狭い十二ヶ岳の頂上で昼休みとした。富士山はあいにく半分より上は雲の中だったが、それ以外はわりと遠望がきく。しかしそちら側は樹林が邪魔をしている。

桑留尾への下山路は、上部に少々急なところもあるが、それもわずかで、あとは穏やかな尾根道となる。最後の写真は傾斜が緩んだところでほっと一息、坂本さんと地図を眺めているところである。

西湖畔に近づくと、かつての通学路をたどるようになる。文化洞トンネルに近い集落を歩いているころ、青木ヶ原の彼方から夕日がさして、ところどころに残った紅葉をさらに紅く照らし出したのは見事だった。

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